| 奮迅丸 | |||
| 藩名 | 熊本藩 | ||
| 藩主 | 細川韶邦(慶順) | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

原名は「フェアリー」、五十トンの小さな船で、1865年にイギリスで造られ、熊本藩が二万二千ドルで買ったと伝わります。
五十トンという、際立って小さな船です
五十トンというのは熊本藩の船のなかで際立って小さく、六百トンとされる万里丸や三百五十トンとされる凌雲丸と比べれば十分の一ほどです。それでいて二万二千ドルという値は、三万五千ドルの神風丸とさほど変わりません。小さくとも値の張る買い物だったことになります。
この船の記録が、見つかりません
ただし「奮迅丸」という名で調べても、幕末の船としての記述がどこにも見あたりませんでした。原名フェアリーの綴りも、買った日取りも、戊辰戦争でどう使われたのかも、そのあとどうなったのかも分かりません。熊本藩の蒸気船の購入については白石烈氏の「幕末肥後藩の政治活動とその背景」という論考があり、『新熊本市史』にも記述があるそうですので、そちらを当たる必要がありそうです。
熊本藩は、長崎警備の当番藩ではありません
九州の大藩が船を持つと、つい長崎警備と結びつけたくなります。けれども長崎警備の当番は福岡藩と佐賀藩の隔年交代で、加勢にあたったのは島原・平戸・唐津・大村の各藩でした。熊本藩はこの当番に入っていません。
では長崎と縁がなかったのかというと、そうでもありません。熊本藩は長崎に聞役を「定詰」で置いた六藩の一つで、大黒町に蔵屋敷を構えていました。奮迅丸をイギリスから買ったのも、この長崎との恒常的なつながりの上にある話です。当番として警備に立つのではなく、情報と商館のルートを押さえていた藩、という位置づけになります。
五十トンの船と、二十七万両の船
奮迅丸は五十トン、二万二千ドル。同じ熊本藩が買った船のなかで、これと対をなすのが甲鉄コルベットの龍驤です。
龍驤は原名をジョウ・ショウ・マル(常昭丸)といい、イギリスのアバディーンにあるアレクサンダー・ホール社で造られ、明治二年三月二十七日に進水、八月十一日に竣工しました。発注に関わったのはトーマス・グラバーです。熊本藩が長崎の英商から買って「龍驤」と名づけたのが明治三年三月で、価格は二十七万両。熊本県立図書館の回答が示す数字です。
買ったその月に、熊本藩は献納を申し出ています。太政官の受取返答が四月十二日付、五月八日に品川沖で領収されました。もっとも「明治四年五月献上」とする記録もあり、日付は一定しません。この船はのちに明治五年の明治天皇西国巡幸で御召艦となり、佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争に従軍しました。
五十トンの奮迅丸と、二十七万両の龍驤。同じ藩が同じ数年のうちに手にした二隻の落差が、幕末から明治初年にかけての海軍の立ち上がり方をよく表しています。小舟を買い集めていた藩が、そのまま新政府の海軍に船を差し出す側へ移っていったわけです。
なお、奮迅丸の諸元として研究の表に載っているのは五十トン・鉄製蒸気・内車というところまでで、原名、建造年、具体的な用途、最期、明治政府への献納の有無は、いずれもわかっていません。
奮迅丸を船の型と持ち主から読む
奮迅丸には機関がなく、帆だけで走る船でした。石炭を積まないぶん、船倉を荷や人に使えます。(帆船と蒸気船の違い)船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している熊本藩(肥後藩)の船は、この奮迅丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ熊本藩(肥後藩)の船には、凌雲丸(輸送船)、万里丸(輸送船)があります。
持ち主の熊本藩(肥後藩)の幕末をふり返ると、公武合体寄りから、戊辰戦争では新政府側へ。奮迅丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の熊本藩—横井小楠
熊本の思想家
奮迅丸を持った熊本藩(肥後藩)(細川家五十四万石)は、幕末の思想家・横井小楠を出した藩です。小楠は藩の中では受け入れられず、越前藩主・松平春嶽に招かれて越前藩の改革を指導しました。公の議論で政治を行い、外国とも交易して国を富ませるべきだという小楠の考えは、勝海舟や坂本龍馬にも大きな影響を与えています。
小楠の最期
明治になって新政府の参与となった小楠は、明治二年(1869)正月、京都で攘夷派の浪士に襲われて亡くなりました。開国と交易を説いた小楠の死は、新しい時代になってもなお、攘夷の考えが根強く残っていたことを示しています。



