| 凌雲丸 | |||
| 藩名 | 熊本藩 | ||
| 藩主 | 細川韶邦(慶順) | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気船 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

熊本藩が買ったイギリス製の蒸気船です。原名や建造年、購入の日取りは、公の資料では確かめられていません。
要目に、二つの数字があります
凌雲丸は鉄製・百六十馬力・長さ百八十尺・荷積高百五十トンと伝わります。いっぽう幕末の諸藩の船をまとめた一覧には、1858年のイギリス建造で、慶応二年六月に長崎で十一万九千ドル、三百五十トン・百六十馬力とするものがあります。馬力は一致しますが、トン数は百五十と三百五十で開きがあります。もっとも幕末の船で使われる積量と排水量は別の測り方ですので、同じ船を違う物差しで測った数字である見込みもあります。いずれにせよ、この船の原名も建造年も購入の日取りも、公の資料では確認できません。
熊本藩が船を買っていたことは、別の船からはっきり分かります
凌雲丸そのものの裏づけは取れませんでしたが、熊本藩が洋式船を買い進めていたことは、のちの軍艦「龍驤」の経緯からよく分かります。慶応元年、熊本藩はイギリスのアバディーンの造船所へ軍艦を注文しました。イギリス側の記録では、長崎の商人トーマス・グラバーが「ジョーショーマル」の名で発注し、アレクサンダー・ホール社が造ったことになっています。この船は1869年3月27日に進水して八月十一日に竣工し、翌年の一月七日に長崎へ着きました。熊本藩は明治三年三月にグラバーからこれを買い取ると、そのまま明治政府へ献納を申し出て、五月八日に品川沖で引き渡しています。五十四万石の藩が、自前で持つには重すぎる船だったということかもしれません。
「百六十馬力」は、実際の出力ではありません
凌雲丸の要目にある「百六十馬力」という数字は、いまの自動車のカタログにある馬力とは意味が違います。当時の船の馬力は公称馬力といって、機関が実際に出す力ではなく、シリンダーの大きさから決まる目安の値でした。
算出のしかたはこうです。復水機関の場合、シリンダー直径をインチで測って二乗し、ストロークをフィートで測った立方根を掛け、四十七で割る。要するに寸法だけで決まる数字で、燃焼も回転数も入りません。この式を整理した十九世紀の技術書は「機関が実際に出す出力を公称馬力から導くことはできない」と明言しています。
では実際はどのくらいかというと、十九世紀末の技術年鑑は、公称馬力は指示馬力のおよそ六分の一とみてよいとしています。つまり公称の数字より実出力のほうが数倍大きいことになります。幕末の艦船で例を挙げると、蟠龍丸は『帝国海軍機関史』に「実馬力百二十八HP」と記されています。凌雲丸の百六十馬力も、そのまま「今の百六十馬力」と読まないほうがよい数字です。
トン数の二つの数字
荷積高は百五十トンとされますが、研究の表では百五十トンから三百五十トンと幅を持たせて記録されています。備砲は二門、鉄製の蒸気船です。
幅が出るのは、当時の「トン」に統一した基準がなかったからです。いまは、積める貨物や燃料の重さを示す載貨重量トンと、浮かんだときに押しのけた水の重さを示す排水トンが使い分けられ、後者は主に軍艦に使われます。幕末の資料がどちらの数え方をしているかを一律に整理した研究は見つけられませんでした。福井藩の富有丸のように、同じ船が二百七トンとも二百四十トンとも書かれる例があります。
要目の数字は、船の大きさを比べるための目印としては使えますが、そのまま性能の比較には使えない、というのが実情です。長さ百八十尺、およそ四十八・五メートルという寸法のほうが、この船を思い描くにはむしろ確かな手がかりになります。
なお凌雲丸は慶応二年に熊本藩が買ったとされますが、原名、建造年、購入価格、用途、最期、明治政府への献納の有無は、いずれもわかっていません。
凌雲丸を船の型と持ち主から読む
凌雲丸は蒸気機関を積んだ船ですが、外輪かスクリューかを伝える記録は見つかっていません(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している熊本藩(肥後藩)の船は、この凌雲丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ熊本藩(肥後藩)の船には、奮迅丸(輸送船)、万里丸(輸送船)があります。
持ち主の熊本藩—宮部鼎蔵と肥後の勤王党
肥後の勤王党
熊本藩には、尊王攘夷を掲げる藩士たちの集まり「肥後勤王党」がありました。その中心にいたのが宮部鼎蔵です。宮部は長州の吉田松陰と親しく、東北を一緒に旅したこともありました。宮部は藩を脱けて京都で活動し、元治元年(1864)六月五日、池田屋に集まっていたところを新選組に襲われて命を落としています。
藩の立場
熊本藩そのものは、幕府に協力する立場をとり、慶応二年(1866)の四境戦争では小倉口に兵を送りました。凌雲丸が長崎で熊本藩の船となったのは、まさにその年のことです。藩士の中の勤王派と、藩の公式の立場とのあいだには、大きな隔たりがありました。



