| 協隣丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 90馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
■ 詳細
1863年米より購入しました。原名「サントン(山東)」。
所属した江戸幕府と、江戸湾の海防
この船・協隣丸を運用したのも、江戸幕府です。幕府にとって最大の課題は、将軍のお膝元・江戸湾をいかに守るかでした。
ペリー来航を受け、幕府は江戸湾に砲台「品川台場(お台場)」を築き、洋式の艦船とあわせて首都の防衛体制を固めました。協隣丸のような船も、その海防の一翼を担ったとみられます。江戸湾の守りの現場についてはお台場のページへ。
幕末軍艦一覧リスト
名前だけが残っています
正直に書いておきます。この船については、ほとんど何も分かりませんでした。幕府海軍の船を並べた一覧に、協鄰丸という表記で名前があるだけで、注も説明もありません。原名のサントン、つまり山東の字を当てた船がどこで造られたどんな船だったのかも、確かめられませんでした。千八百六十三年にアメリカから買ったという記述も、ほかの資料では裏が取れていません。
買った側の事情なら、分かります
船そのものが分からなくても、幕府がこの時期に何をしていたかは分かります。文久二年、幕府はイギリスから鉄製の外輪船を十五万ドルで買いました。順動丸です。同じころ箱館奉行は二万二千ドルで健順丸を買い、慶応元年には長崎で三万五千メキシコドルの鶴港丸を買っています。数万ドルから十数万ドルの船を、幕府は次々に買い集めていました。協隣丸の九十馬力という小さな外輪も、その流れのなかの一隻です。大砲は積んでいません。軍艦と名がついていても、実際は物と人を運ぶための船でした。
記録が残る船と、残らない船
幕府海軍の一覧を眺めると、船ごとに扱いが違うことに気づきます。沈んだ船には沈んだと書かれ、明治政府へ渡った船には渡ったと書かれています。協隣丸には、何も書かれていません。引き渡された記録も沈んだ記録も、この一覧を作った人の手元になかったということです。咸臨丸のように名を残した船がある一方で、名前だけを残して消えた船が、同じ数だけありました。

