病床の信学に代わり、沢副総督を笹谷に迎えた中老
慶応四年に奥羽鎮撫総督が任命されると、天童藩主にもその先導が命じられます。ところが藩主織田信学は病床にあり、世子の信敏はまだ若年でしたので、中老の吉田大八守隆が先導代理を務めることになりました。明治元年四月、大八は沢副総督の軍を笹谷に出迎えて天童へ案内します。大八は事を荒立てずに時局を収めようと腐心しましたが、旧幕府方の庄内藩が軍を村山へ進めたため、天童は兵火に焼かれてしまいます。領地は村山郡二十一か村に散在するばかりで、抗しきれる力はありませんでした。
賞金百両を懸けられ、観月庵に果てるまで
奥羽列藩同盟が結成されると、小藩の天童も加盟を余儀なくされます。庄内藩は大八の引き渡しを強く求め、賞金百両を懸けて捜索させました。累が藩と城下に及ぶことを憂えた大八は、米沢藩の山形陣所へ自ら出向いて縛につきます。天童藩はやむなく死を賜ることとし、大八は明治元年六月十八日、天童の観月庵で「我のみは涼しく聞くや蝉の聲」の辞世と七言絶句を残して割腹しました。享年は三十七でした。この七言絶句は遺墨として、いまも天童市の指定文化財になっています。
明治四年に刻まれた大八像と、桜に覆われた舞鶴山
戊辰の戦いが終わると、大八を顕彰する動きが起こります。像は明治四年、五日町の佐藤直正を施主として、江戸浅草の生人形師であった尾村平五郎とその父安五郎の手で作られ、こちらも市の指定文化財に数えられます。城跡の舞鶴山には、明治三年に織田信長を祭神として創建された建勲神社が鎮座し、明治三十五年には鈴木太助が染井吉野を二千株植えたことから、桜の山として今日の姿になりました。
天童城について
天童城は最上氏の一族の里見氏が初代とされおり、今の天童市に拠点を構えました。
このことから天童氏と名乗るようになり、以後代々栄えてきました。
一方本家である「最上義光」とは領地などで次第に争う形になり、ついに義光は「天童頼澄」の天童城へ攻撃を仕掛けました。一時は攻撃を凌いだが執拗な義光の攻撃によりついに天童城は落城しました。落城後は廃城となりましたが、天保二年(1831年)に織田信雄の末裔である織田氏が天童へ入封し、明治維新まで続きました。
幕末になると天童藩は新政府軍の圧力に屈し、重臣の吉田大八を先頭に庄内藩を攻めたが逆に反撃にあい天童城は落城してしまいます。
※幕末時に不運の重臣「吉田大八」像

※「吉田大八」は、奥羽越列藩同盟に加わったあとに新政府軍から身柄の引き渡しを求められ、自首したうえで死を命じられました。
その後は苦しまぎれに奥羽越列藩同盟に加わったが形勢がかわるといち早く新政府軍に恭順・降伏しています。こうして織田氏は幕末の動乱を生き抜くことが出来たのです。
なお、天童藩の石高はおよそ二万三千石でした。
城のあった舞鶴山は公園として整備され、山上には建勲神社が、山腹には吉田大八の像が建っています。
〒994-0000 山形県天童市天童字城山
天童の将棋駒
藩士の内職から 天童藩(織田家二万石)は、財政が苦しい小藩でした。幕末に藩の財政の立て直しにあたった家老の吉田大八は、藩士たちに将棋の駒づくりを内職として勧めたと伝えられます。将棋は武士のたしなみでもあり、駒づくりは武士の体面を損なわない仕事とされたのです。
日本一の将棋駒の町 こうして始まった駒づくりは、明治以後も天童の産業として受け継がれ、いまでは天童は全国の将棋駒の大部分をつくる「将棋の町」として知られています。毎年春には、舞鶴山で人が駒になって将棋を指す「人間将棋」が開かれています。
舞鶴山の天童城と、織田家の天童陣屋
天童の名と、最上八楯の拠点
舞鶴山には、南北朝時代に北畠天童丸がいたと伝えられています。これが天童という地名の由来とされます。天授元年(1375年)ごろには、最上直家の子・天童頼直が入ったとされます。
天童城は、舞鶴山の全体に曲輪を連ねた山城です。範囲は東西約1キロ、南北約1.2キロに及び、村山地方で最大の城とされます。標高231.8メートルの山頂が主郭で、いまは愛宕神社が建っています。天童氏は周辺の国人と結んだ「最上八楯」の盟主でしたが、天正十二年(1584年)に最上義光に攻め落とされました。
小幡から高畠、そして天童へ
幕末の天童藩主・織田家は、織田信長の次男・信雄の流れをくむ家です。もとは上野国小幡にいましたが、明和四年(1767年)の明和事件に連座して、出羽国高畠へ移されました。文政十一年(1828年)、織田信美は藩の拠点を高畠から天童へ移す許しを得ます。天童に陣屋を構えて移ったのは天保元年(1830年)とされ、天保二年とする資料もあります。石高は2万石でした。
陣屋は、羽州街道沿いの町並みの西側に置かれました。大手門の近くには、北辰一刀流の道場「調武館」と稽古所があったといいます。
焼けた城下と、戦後の減封
天童の戦いでは、庄内藩兵の攻撃で陣屋と城下の二百三十三戸が焼けました。藩はその後、奥羽越列藩同盟に加わり、九月に降伏します。戦後は二千石を削られ、1万8000石となりました。吉田大八は、天童護国神社(旧・守隆祠)に祀られています。
鉄道が通った陣屋跡
明治四年の廃藩置県で、天童藩は天童県となり、同じ年のうちに山形県へ編入されました。明治三十四年(1901年)に開通した奥羽線は、陣屋跡の真ん中を通っています。そのため陣屋の遺構はほとんど残っていません。中心だった喜太郎稲荷神社のあたりに、「調武館・稽古所跡」の案内板が立っています。
場所・アクセス・地図
山形県天童市天童古城


