1580年(天正八年)、里見義頼によって館山城が築城されました。それまでの里見家は安房の国「稲村城」で栄え、さらに「里見義堯」が上総の久留里城を居城とした時が里見家の最盛期と言えます。その後、慶長十九年(1614年)、当主「里見忠義」の時に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなりました。

この際に館山城も廃城となり破却されました。天明元年(1781年)に「稲葉正明」が館山藩主となって館山に入封したが城を再建することはなく、2代正武が城の麓に館山陣屋を構えて、そこを新たな藩庁としました。
幕末当時の老中格「稲葉正巳」は有能な藩主としてその名を残しています。館山藩は薩長が主体の新政府軍に恭順を示し、廃藩置県実施まで館山藩は続きました。

現在建つ天守は、昭和五十七年(1982年)に再建された模擬天守であり、当時の天守の構造については不明です。この天守は現在、館山市立博物館分館として利用され周辺は城山公園となっています。
城下には館山市立博物館本館があります。

ペリー来航と房州の海防、白河・忍・岡山の三藩
館山市立博物館の解説によりますと、安房の海岸は江戸湾の出入口を押さえる要地として、文化七年から文政六年まで奥州白河藩が、天保十三年から嘉永六年まで武州忍藩が、嘉永六年のペリー来航のあとから安政五年までは備前岡山藩が守りを受け持ちました。大房・滝口・忽戸や、洲崎・伊戸・布良には台場が築かれます。しかし安政五年に西洋諸国との修好通商条約が結ばれますと、房州の海防施設はすべて廃止となりました。
老中格稲葉正巳と、館山湾に集まった軍艦
同館によりますと、四代藩主稲葉正巳は慶応二年、わずか一万石の身ながら老中格へ進み、海軍総裁を兼ねました。鳥羽伏見の戦いののち、慶応四年二月には老中職を辞して隠居謹慎し、新政府に恭順して館山に蟄居します。同年閏四月の中ごろからは館山湾への軍艦の入港が頻繁となり、軍艦の引き渡しを拒んだ榎本武揚の旧幕府艦隊も、この湾へ姿を見せました。跡を継いだ稲葉正善は明治二年に版籍奉還が聞き届けられ、館山藩知事となります。
高射砲陣地に削られた城山
館山市によりますと、館山城跡は昭和三十五年六月十六日に市の史跡へ指定されました。ただし山頂は戦時中に高射砲陣地とされたため削られており、往時の地形はとどめておりません。昭和五十三年から五十五年にかけての発掘調査では御殿跡や鹿島堀跡が確認され、城山の東側には堀跡が残ります。山頂の模擬天守は福井県の丸岡城をかたどったものです。


里見氏と『南総里見八犬伝』
里見氏の城 館山城は、戦国時代に房総を治めた里見氏の最後の居城です。里見義康は関ヶ原の戦いで徳川方につき、安房に加えて鹿島に三万石を加えられましたが、その子の忠義は慶長十九年(1614)、大久保忠隣の失脚に連座して安房を取り上げられ、伯耆の倉吉へ移されました。里見氏はそこで家が絶えています。
八犬伝の城 この里見氏を題材に、江戸時代の後期に曲亭(滝沢)馬琴が書いたのが、長編の読本『南総里見八犬伝』です。八つの玉を持つ八人の犬士が里見家のために戦う物語は大評判となりました。いまの館山城の天守は昭和五十七年(1982)に建てられた模擬天守で、中は「八犬伝博物館」として、八犬伝にちなむ資料を展示しています。
館山城の姿と、里見氏・稲葉氏の時代
湊を抱えた里見氏の城
館山城は、標高約65メートルの城山に築かれた城です。山麓には湊があったと指摘されています。昭和五十七年の模擬天守建設に合わせて発掘調査が行われ、高層の掘立柱建物の跡が見つかりました。ただし、天守台や礎石は確認されていません。城主の居館を中心とした中世的な城郭だったと考えられており、いまの模擬天守は往時の姿を写したものではありません。
12万2000石の里見氏
里見義康が居城を館山へ移したのは、天正十八年(1590年)とも十九年ともいわれます。関ヶ原の戦いののち、義康は常陸鹿島郡で3万石を加えられました。これで里見氏は、9万2000石から12万2000石の大名となります。しかし慶長十九年に忠義が改易され、城は破却されました。城山公園には、忠義に殉じた家臣を祀る「八遺臣の墓」があります。
稲葉氏の時代になってから、城山の南麓に陣屋が置かれたのは寛政三年(1791年)のことです。以後、山上に城が建て直されることはありませんでした。
廃藩ののち
明治四年の廃藩置県で館山藩は館山県となり、同じ年のうちに木更津県へ編入されました。なお、国の史跡「里見氏城跡」に含まれているのは稲村城跡と岡本城跡(平成二十四年指定)で、館山城跡は含まれていません。
場所・アクセス・地図
千葉県館山市館山



