| 廣運丸 | |||
| 藩名 | 南部藩 | ||
| 藩主 | 南部利剛 | ||
| 船種 | バーク船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||
■ 詳細
原名「ウアトルウイッチ」長21間・幅3間4尺・236t イギリス製。
所属した盛岡(南部)藩と、戦後の白石転封
この軍艦・廣運丸を運用したのは、陸奥の盛岡藩(南部藩)です。奥羽越列藩同盟に加わって戦った盛岡藩は、敗戦の代償を大きく背負いました。
戊辰戦争ののち、盛岡藩は責めを負って、いったん白石(現在の宮城県)へ減転封を命じられます。のちに多額の献金によって旧領の盛岡への復帰が許されましたが、藩の財政はいっそう苦しくなりました。敗者となった東北の雄藩が味わった厳しい戦後を物語ります。廣運丸は、その盛岡藩の一隻でした。
幕末軍艦一覧リスト
この船については、分からないことばかりです
原名ウアトルウイッチ、長二十一間・幅三間四尺で二百三十六トン、イギリス製。当ページに書けるのはここまでで、外部の資料でこの船を扱ったものはほとんど見あたりませんでした。造られた場所も、買った日も値段も、戊辰戦争でどう使われたのかも分かりません。一つだけ、文久三年三月に箱館で二万五千元で買い、慶応二年二月に磐城の尻谷崎沖で破船した、とする記述を見つけましたが、その資料は典拠を示していません。もし本当であれば、この船は戊辰戦争が始まる前になくなっていたことになります。確かめられないまま、書き留めておきます。
南部藩の船は、和船のほうがはっきりしています
盛岡藩の船で記録がはっきりしているのは、廣運丸より古い和船のほうです。寛永年間に藩の御座船として宮古丸と虎丸が宮古に置かれ、慶安三年には宮古と八戸で三百石船が造られました。安政二年には蝦夷地の警備のため、虎丸が江戸で新しく造られています。ところがこの虎丸は安政四年、函館の勤番の者を乗せて下北の大畑を出たあと、濃い霧のなかで蛇浦に乗り上げて壊れました。
蝦夷地の警備を、長く負っていました
盛岡藩が船を必要としたのは、蝦夷地の警備があったからです。寛政九年、幕府は松前藩の藩主の参勤交代を止め、この藩に警備を命じました。寛政十一年から文政四年まで、そして安政二年から慶応四年まで、長い期間にわたって兵を送っています。下北から釜石までの沿岸には遠見番所と砲台場が置かれました。
宮古の沖で、旧幕府軍の船が座礁しています
南部藩の海でいちばん知られた出来事は、明治二年三月二十五日の明け方、宮古の湾で起きました。榎本武揚の艦隊の回天丸、蟠竜、高雄丸が、宮古に停まっていた新政府の甲鉄艦を奪おうとした戦いです。回天の艦長・甲賀源吾が戦死し、土方歳三が斬込隊長として乗っていました。戦いは三十分ほどで終わっています。このとき高雄は春日に撃たれ、足が遅かったために対岸のイシ浜へ乗り上げました。艦長の古川節蔵ら乗組員は上陸し、のちに南部藩へ投降しています。宮古には新政府軍の戦死者の墓があり、盛岡藩が埋葬を頼まれて長州藩の一人と阿波徳島藩の三人を葬った、と伝えられます。現地の様子は宮古湾海戦の碑にまとめました。
七十万両で、盛岡へ戻りました
戦後の処分について、数字を添えておきます。盛岡二十万石を取り上げられ、白石十三万石へ移されました。十三万というのは石高であって、金額ではありません。そして翌明治二年七月、七十万両を献じることを条件に、盛岡へ戻ることが許されます。このとき藩主だった南部利恭は安政二年の生まれで、降伏のときはまだ十三歳でした。十二所の新政府軍の本陣と、横手の九条総督のもとへ出向き、土下座して降伏の礼を示しています。家老の楢山佐渡が処刑されたのは明治二年六月二十三日、盛岡の報恩寺でした。
もう一つ、同じ船のページがあります
当サイトには廣運丸のページがもう一つあり、そちらでは釜石の鉄と宮古の港のことを書いています。廣運丸のページもあわせてご覧ください。

