西江原藩の歩み
西江原藩は江戸中期の10年間存在した藩です。元禄十年(1697年)、森成利(蘭丸)の弟「忠政」を藩祖に持つ美作国津山藩の断絶にともない、津山藩2代藩主だった隠居中の「長継」が二万石で立藩することを許されました。領地は備中国後月郡西江原(岡山県井原市)周辺を領有し、西江原に陣屋が置かれました。 宝永三年(1706年)、第2代藩主「長直」のときに赤穂藩へ転封となり廃藩となりました。
廃藩のあと—幕末の西江原
西江原藩が赤穂へ移ったあと、この地は幕府領を経て、延享三年(1746年)から御三卿・一橋徳川家の領地になりました。旧陣屋の地には一橋家の代官所(江原役所)が置かれます。
そして慶応元年(1865年)の春、この代官所に一人の一橋家家臣がやってきます。渋沢栄一です。備中の一橋領をまわって農兵を募る役目でした。募集は大きな成果をあげ、のちに徳川慶喜に認められるきっかけになります。滞在中の渋沢は、代官所の教諭所を母体とする興譲館の館長・阪谷朗廬と会い、親交を結びました。興譲館の校門にかかる扁額は、明治四十五年(1912年)に渋沢が書いたものです。
すぐ隣の井原村を領していた旗本・池田長発(筑後守)は、文久三年(1863年)に横浜鎖港談判のためヨーロッパへ渡った第二回遣欧使節(横浜鎖港談判使節)の正使でした。帰国後は交渉が実らなかったとして蟄居させられています。井原小学校の敷地に石碑と銅像が建てられました。
現在、西江原には「史蹟 一橋府江原役所趾」の標柱が立ち、興譲館高校には講堂と校門が残ります。
【廃藩のあと—幕末の西江原】一橋家の代官所と、渋沢栄一が歩いた土地
西江原藩は宝永三年(1706年)に森長直が播磨の赤穂へ移ったことで廃藩となり、幕末には藩として存在していません。ではこの土地は幕末にどうなっていたのか。実はここは、御三卿の一つである一橋徳川家の領地でした。
江原役所
一橋家は備中に領地を持ち、西江原に江原役所と呼ばれる代官所を置いて支配していました。そしてこの役所に関わる人物として、のちに実業界で知られる渋沢栄一が登場します。栄一は一橋家(徳川慶喜の実家)に仕えており、慶応元年(1865年)から翌年にかけて、農兵の募集と領内の産業の振興のために備中の一橋領を訪れました。井原市は、この訪問を郷土の歴史として紹介しています。幕末の備中の農村が、後の近代日本の経済を作る人物の足跡と重なっているわけです。
興譲館
西江原でもう一つ重要なのは学校です。嘉永六年(1853年)、一橋家の代官・友山勝治が郷校を開き、漢学者の阪谷朗廬を初代の館長に招きました。名は『大学』に典拠を求めて興譲館と付けられています。朗廬は明治元年(1868年)まで十五年にわたって在館し、安政六年(1859年)には講堂の屋根を藁葺から瓦葺に改めています。
この興譲館の講堂と門、そして紅梅は、昭和三十四年(1959年)に岡山県の史跡に指定されました。学校そのものは明治以降も続き、現在の興譲館高等学校になっています。校門の扁額は、明治の末に渋沢栄一が揮毫したものです。代官所と学校、そして渋沢という線で、幕末の西江原はつながっています。
旗本の町・井原
井原の一帯は支配が入り混じっていました。高屋は江戸初期に福山藩領で、のちに幕府領と旗本領になり、井原は旗本の井原池田家の知行地でした。この池田家の当主・池田長発は、文久三年(1863年)に遣欧使節の正使としてヨーロッパへ渡った人物です。備中松山藩や岡山藩のような大きな藩に挟まれた備中西部が、幕府の外交と教育の両面で幕末に人を出していたことになります。
廃藩置県のあと、この地域は福山県に入り、深津県、小田県を経て、明治八年(1875年)十二月に岡山県へ編入されました。
赤穂の森家はここから—西江原藩と男子二十四人の殿様
森長継—森忠政の外孫
西江原藩の森長継は、美作津山藩主・森忠政の外孫にあたります。忠政の跡を継いで津山藩主となり、津山城下に庭園・衆楽園を造ったことで知られます。男子が二十四人いたともいわれる子だくさんの殿様でした。正室は鳥取藩主・池田長幸の娘です。家格は外様です。
本家の改易と、隠居の藩の存続
元禄十年(1697年)、津山の森家は跡継ぎの問題で改易されました。このとき、隠居していた長継には備中西江原(いまの井原市)に二万石が与えられ、家が残されています。大藩などの働きかけがあったとされます。
そして赤穂へ
宝永三年(1706年)、長継の子・長直は播磨赤穂に移されました。赤穂は、元禄十四年の刃傷事件で浅野家が改易されたあとの土地です。赤穂森家は江戸城の柳間に詰める大名として幕末まで続き、長直の墓は花岳寺にあります。
忠臣蔵のあとを継いだ家
赤穂といえば浅野家と四十七士ですが、その後百六十年あまり赤穂を治めたのは、西江原から移った森家でした。西江原藩は、忠臣蔵の「その後」の物語の出発点だったといえます。備中の山あいの小藩が、赤穂の幕末へとつながっているのは、意外で面白いところです。
津山森家のほかの分家
津山の森家には、西江原藩のほかにも分家がありました。森長俊が1万5千石を分けられた三日月藩と、隠居した森長武に与えられた蔵米2万俵の津山新田藩です。本家が改易されたあと、幕末まで残ったのは赤穂へ移った家と三日月の家でした。



