西端藩の歩み
元治元年(1864年)、第10代領主「本多忠寛」が江戸警備の功績などにより一万五百石への高直しを許され、ここに本多氏は大名となり西端藩を立藩しました。慶応三年(1867年)五月二十日に忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男の「本多忠鵬」が家督を相続しました。忠鵬は明治元年(1868年)にいち早く新政府軍に与して陣屋を官軍に兵営として貸し与えました。
翌年六月には農民兵を募集して洋式訓練を行い藩政改革を行なったが、間もなく「版籍奉還」となり、忠鵬は西端藩知事となりました。明治四年(1871年)七月十四日、「廃藩置県」で西端藩は廃藩となり、西端県、額田県を経て愛知県に編入されました。
三河西端の本多家
西端藩は、三河国(現在の愛知県碧南市)に置かれた一万石余りの藩で、藩主は譜代の名門・本多家、陣屋を構える小藩でした。三河湾に近い地にあって、徳川発祥の地・三河の一角を治める大名家でした。
いち早く陣屋を官軍へ
戊辰戦争において西端藩は、いち早く新政府軍に与し、自らの陣屋を官軍へ提供するなど、進んで協力する姿勢を示しました。譜代でありながら早々に新政府方につくことで、家名を守ったのです。小藩が動乱の時代を生き抜くための、迅速な判断がうかがえます。
元治元年に大名になり、明治二十四年に家産を失った家
西端藩は、幕末になってから生まれた藩です。もとは旗本でした。元和二年(1616年)に西尾城主・本多康俊の二男である忠相が、大坂夏の陣の行賞で碧海郡の西端村と城ヶ入村あわせて千石を与えられたのが始まりで、以後は九千石の旗本として続きます。
元治元年の立藩
そして元治元年(1864年)、十代の本多忠寛のときに加増を受けて一万五百石となり、大名に列しました。表高は一万五百石ですが実高は一万四千石余りで、領地は碧海郡のほか安房・上総・下総・上野・下野・伊豆に分散していたと伝えられます。禁門の変の年に、旗本から大名へ上がった家ということになります。
陣屋を官軍に差し出した
最後の藩主は本多忠鵬です。慶応三年(1867年)五月に父の隠居を受けて襲封しました。そして慶応四年(1868年)二月、新政府に勤王証書を提出して恭順し、尾張藩に属しています。四月三十日には江戸から西端へ移り住みました。陣屋は新政府軍の兵舎として使われたと伝えられます。明治二年(1869年)六月には農兵を集めて洋式の訓練を行い、同月の版籍奉還で藩知事となりました。
廃藩置県では西端県が置かれ、忠鵬がその知事を務めています。同年十一月の県の合併で罷免されて東京へ移り、この地は額田県を経て明治五年(1872年)に愛知県へ入りました。
爵位を得た七年後
忠鵬は明治十七年(1884年)五月に宮中祗候となり、同年七月の華族令で子爵を授けられました。ところがその七年後、明治二十四年(1891年)九月に裁判所から家産分散の宣告を受けています。爵位は残っても、家の財産は失われたということです。明治二十九年(1896年)に三十九歳で亡くなりました。幕末に大名になった家が、明治の三十年を待たずに経済的に行き詰まった例です。
陣屋の跡は碧南市湖西町の一丁目にあたります。現在は住宅地や駐車場になっており、遺構は残っていません。本多家の墓は札木町の庚順寺にあります。碧南市の埋蔵文化財の一覧に西端陣屋跡の登録はなく、文化財としての指定もわかっていません。市は平成二十八年度に「西端藩村方文書」の企画展を開いており、紙の記録のほうがよく残っている藩です。
先祖・本多康俊—酒井忠次の子から本多家へ
西端の本多家の祖・本多忠相の父、本多康俊は、徳川四天王の一人・酒井忠次の次男として生まれました。三河の本多忠次の養子となって本多の家を継ぎ、のちに三河西尾、さらに近江膳所の城主となります。西端本多家は、酒井と本多という二つの譜代の名門の血を引く家でした。
康俊の跡を継いだ長男の家は、膳所藩主として幕末まで続きました。琵琶湖に突き出した膳所城を本拠とした七万石の譜代大名です。一方、次男の忠相が大坂夏の陣の恩賞で得た三河西端の千石が、旗本として二百五十年近く続き、元治元年(1864)にようやく大名に列したのが西端藩でした。同じ父から出た二つの家が、一方は七万石の城持ち大名、一方は幕末ぎりぎりに大名となった一万石の陣屋の家として明治を迎えたことになります。
旗本から大名へ—幕末の「高直し」
幕末には、海防や江戸の警備の負担が重くなるなかで、旗本の所領の石高を改めて一万石以上と認め、大名に取り立てる例がいくつか見られました。西端藩もそうした藩の一つで、大名だった期間は元治元年から明治四年(1871)の廃藩置県までの、わずか七年ほどです。

