清水藩の歩み
「斎藤道三」や「織田信長」に仕えた西美濃三人衆の一人「稲葉良通(一鉄)」は、嫡男の「稲葉貞通」に家督を譲っていました。貞通の庶兄に「稲葉重通」がいたが、父一鉄の死後、清水を中心に一万二千石の所領を領しました。重通は慶長三年(1598年)十月三日に死去し、その後を子の「稲葉通重」が継ぎます。通重は「関ヶ原の戦い」において、当初は西軍に与していたが、途中で東軍に寝返ったため所領を安堵されました。
しかし慶長十二年(1607年)十二月(六月とする資料もあります)、「天野雄光」らと京都の祇園で遊んでいたとき、酒乱のために乱行を起こしたため、幕命により改易され、常陸国筑波に流罪にされ清水藩は廃藩となりました。
殿様は改易されましたが、その養女は将軍家の乳母になりました
清水を領した稲葉重通には、もう一つの顔があります。のちの春日局、斎藤福を養女として迎えた人物です。福は重通の養女となったのち、稲葉正成の後妻となりました。正成は関ヶ原で小早川秀秋を東軍へ寝返らせた人物です。福が三代将軍家光の乳母に上がるにあたっては、正成と離縁する形がとられました。なお福が稲葉一鉄の孫にあたるかどうかは、母を稲葉安とする説と一鉄の姉の娘とする説があり、諸説あります。
通重が改易されたあと、清水はまず幕府領となり、寛永八年(1631年)に大身旗本である岡田氏の知行地となりました。のちに岡田善紀が千二百石を分けられ、その家が幕末まで清水村の領主を務めます。善紀は旧清水城の二の丸に陣屋を置き、その周りに陣屋町ができました。分知の年については史料の表記に食い違いがあり、正確な年は確認できません。
隣の揖斐も見ておきます。揖斐藩は西尾光教が立てた三万石の藩でしたが、元和九年(1623年)に無嗣で廃藩となり天領となりました。同じ寛永八年に旗本岡田善同五千三百石の領地となり、揖斐陣屋が築かれます。つまり岡田家は揖斐の本家と清水の分家に分かれ、幕末まで並んでこの一帯を治めていたことになります。幕末の揖斐地域は、この岡田氏の知行地と尾張藩領が村ごとに入り組む形でした。大垣藩領ではありません。
その大垣藩は、慶応四年(1868年)一月の鳥羽伏見で幕府方として戦い、朝敵とされました。ここから藩論を引っくり返したのが、家老の小原鉄心です。鉄心は新政府の参与に任じられ、許しを得て大垣へ戻ると佐幕派と論じ合い、隠居していた先々代戸田氏正の支持を取りつけて藩主戸田氏共を説得し、恭順の請書を京都へ持ち帰りました。以後、大垣藩は東山道軍の先鋒を務めます。
清水城の跡は、いまの清水小学校のあたりです。正門の脇に標柱が立ち、その下の石垣が遺構とされます。学校の敷地内ですので、見学には配慮が必要です。近くの月桂院は稲葉一鉄が妻の菩提を弔うために開いた寺で、一鉄の墓と元応二年(1320年)銘の梵鐘が、ともに岐阜県指定重要文化財となっています。
祇園事件—同じ日に消えた二つの藩
慶長十二年(1607)、稲葉通重が改易されることになった京都・祇園での乱行には、ほかにも大名がかかわっていました。山城の御牧一万三千石の領主で、織田信長の一族にあたる津田信成です。二人は天野雄光らとともに祇園で酒宴を開き、茶屋の女性たちに乱暴をはたらいたとして、そろって改易されました(御牧藩)。家康が天下を取って間もないこの時期、徳川家は大名の不行跡に厳しくのぞみ、戦国の荒っぽい気風を改めさせようとしていました。清水藩と御牧藩は、その見せしめのように同じ事件で姿を消したのです。
西美濃三人衆と「一徹」
通重の祖父・稲葉一鉄(良通)は、美濃の斎藤氏に仕えた有力な国人で、安藤守就・氏家卜全とともに「西美濃三人衆」と呼ばれました。永禄十年(1567)、三人衆がそろって斎藤龍興を見限り織田信長に従ったことが、信長の美濃攻略を決定づけます。一鉄は頑固で一度決めたら曲げない性格だったと伝えられ、「頑固一徹」の「一徹」は一鉄の名に由来するという説もあります。
一鉄の嫡流は豊後の臼杵藩主として、春日局を介した稲葉正成の家は淀藩主として、それぞれ幕末まで続きました(曽根藩)。乱行で改易された通重の家だけが、一鉄の子孫の中で大名の座を早くに失ったことになります。
春日局の養家の城—清水藩の稲葉通重
稲葉一鉄の孫
清水藩主・稲葉通重は、稲葉一鉄の庶長子・稲葉重通の子です。関ヶ原では叔父の稲葉貞通(のちの臼杵藩祖)と一緒に西軍についたのち、東軍へ移りました。父の重通は、本能寺の変のあと一揆に囲まれた信濃飯山城を救いに行き、晩年は秀吉の御伽衆を務めた人です。家格は外様です。
春日局の養家
重通は林正成(のちの稲葉正成)を婿養子に迎えましたが、娘が先に亡くなったため、姪の福を養女にして正成に嫁がせました。この福が、のちに三代将軍家光の乳母となる春日局です(十七条藩)。清水城は、春日局の養家の城だったことになります。同じ揖斐川町の白樫には「春日局出生地」と伝わる春日局公園もあります。
祇園での乱行と、春日局の子に拾われた家
慶長十二年(1607年)、通重は京都の祇園で遊興中に乱行を起こし、改易されました。豪商の女性たちを茶屋に連れ込んで酒の相手をさせ、後藤家の家来を木に縛って刀で脅したと伝わります(御牧藩の津田信成も同じ一件で改易されています)。通重は流罪先の常陸筑波で元和四年(1618年)に亡くなりました。長男の通勝は、いとこ筋にあたる春日局の子・稲葉正勝(のちの小田原藩主)の家臣になっています。
清水城跡と揖斐川
清水城跡には、東門の南側にわずかに石垣が残っています。揖斐川歴史民俗資料館には、稲葉一鉄の甲冑と揖斐川の舟運の資料があります(揖斐駅から車で約十分)。稲葉家の菩提寺・月桂院は、稲葉家が去ったあと衰えましたが、のちに彦根藩主井伊家の尽力で再興されました。乱行で家を失った殿様の子を、養家の娘の子が拾う。清水藩の物語の最後には、春日局の存在が見えます。



