十七条藩/稲葉家1万石:稲葉正成 下野真岡藩へ加増転封のため廃藩

【藩名】
十七条藩

【説明】
「小早川秀秋」の家老「稲葉正成」は「関ヶ原の戦い」で「平岡頼勝」とともに秀秋の東軍裏切り工作を行なった人物として有名であるが、秀秋没後に浪人します。やがて「徳川家康」に召し出され、慶長12年(1607年)、美濃国内に1万石を与えられて十七条藩を立藩しました。

元和4年(1618年)2月、正成は「松平忠昌」付の大名として越後糸魚川藩2万石に移されることとなったが、正成は忠昌に従うことを嫌ったため、寛永4年(1627年)2月、下野真岡藩2万石に移され十七条藩は廃藩となりました。

なお、稲葉正成の前妻は3代将軍「徳川家光」の乳母となる春日局です。この関係から稲葉家お立身が始まることになります。

【春日局の夫が、自分の生まれた城の名で立てた藩】

まず場所です。十七条は岐阜県瑞穂市十七条——旧本巣郡巣南町にあたります。本巣市ではありません。旧郡名が同じなので混同されやすい地名です。村名は条里制の「十七条」に由来します。

この藩を立てたのは稲葉正成春日局の夫にあたる人物です。関ヶ原で小早川秀秋を説得して徳川方につけたと伝えられます。慶長十二年(1607年)に一万石を与えられて成立し、元和四年(1618年)に正成が松平忠昌の御附家老として越後糸魚川へ移って廃藩となりました。

そして十七条城(船木城)は、その稲葉正成が生まれた城です。もとは林姓で、この城で生まれ、成人してから稲葉家の養子となって改姓しました。自分の生まれた城の名を冠した藩、ということになります。

廃藩の翌年、領地のほとんどは尾張藩領となりました。その後、正成の二男・稲葉正定が十七条で千石余を与えられて尾張藩主に仕えましたが、延宝三年(1675年)に正定の孫に嗣子がなく、十七条の知行主としての稲葉家は断絶します。

幕末の十七条村がどこの領地だったかは、確かめられませんでした。尾張藩領・大垣藩領・幕府領のいずれかと思われますが、推測の域を出ません。

ただ、この一帯を語るうえで外せないのが笠松陣屋です。美濃郡代がここに置かれ、治水と裁判、年貢の徴収を担いました。長良川と揖斐川に挟まれた輪中の地にとって、治水行政の窓口だったことになります。

そして明治元年、その笠松陣屋の跡がそのまま「笠松県庁」となり、明治四年には「岐阜県庁」になりました。明治六年に岐阜市へ移るまでの五年間、岐阜県の中心地は笠松だったのです。跡地はいまも「県町」という地名で残っています。

【場所・アクセス・地図】

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