曽根藩の歩み
戦国時代、曽根城は斎藤道三、織田信長に仕えた西美濃三人衆の一人「稲葉良通(一鉄)」が治めていました。しかし良通の孫「稲葉典通」は天正十五年(1587年)の九州征伐において不手際があったことから、豊臣秀吉の怒りをかって蟄居させられました。
代わって天正十六年(1588年)、曽根城には「西尾光教」が二万石で入封します。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で光教は東軍に与して大垣城攻略に貢献したことから、戦後に一万石加増の上で美濃揖斐藩に移封され、曽根藩は廃藩となり所領は天領(幕府領)となりました。
廃藩のあと—幕末の曽根
まず場所です。曽根は美濃国安八郡、いまの岐阜県大垣市曽根町にあたります。
西尾光教が揖斐へ本拠を移して曽根城が廃されたあと、曽根村は徳川の直轄領を経て、寛永十二年(1635年)以後は大垣藩(戸田家十万石)の領地となりました。幕末の記録でも曽根村六百九十七石は大垣藩領です。
正直に書きますが、曽根の村で幕末に何かが起きたという記録は見つけられませんでした。大垣藩そのものは慶応四年の鳥羽伏見で当初は旧幕府方に立ち、のちに新政府方へ転じて東征に従っていますが、曽根に結びつく話は確認できていません。
この土地の見どころはむしろ戦国です。城主だった稲葉一鉄は西美濃三人衆の一人で、春日局ゆかりの地でもあります。関ヶ原のときには西尾光教が東軍についたため、石田三成が近隣の大名に曽根城を壊させ、その後は東軍の松平康長らが占拠して大垣城攻めの拠点としました。関ヶ原の前哨戦の舞台です。
いまは曽根城公園として整備され、土塁と天守台の石垣が大垣市の史跡として残ります。本丸跡は華渓寺になりました。園内の池には絶滅危惧種の淡水魚ハリヨが生息し、六月には花菖蒲が二万七千株咲きます。
曽根城主・稲葉一鉄の子孫たちの幕末
曽根城を治めた稲葉一鉄(良通)の家は、曽根を離れたあとも二つの流れに分かれて幕末まで続きました。
一つは一鉄の子・稲葉貞通の家です。貞通は美濃の郡上八幡に移り、関ヶ原の戦いのあと豊後の臼杵五万石に移されて臼杵藩の藩祖となりました。曽根で秀吉の怒りを買った典通は、この貞通の子です。臼杵藩は明治まで稲葉家が治め、幕末には佐幕にも倒幕にもくみせず、中央の動きを見守る立場をとりました。明治二年(1869)には豊後の諸藩でもっとも早く版籍奉還を行っています。
もう一つは、一鉄の血を引く女性・福(のちの春日局)を妻とした稲葉正成の家です。春日局が三代将軍家光の乳母となったことで、正成の子孫は譜代大名として重く用いられ、やがて山城の淀藩主となりました。幕末の淀藩主・稲葉正邦は京都所司代や老中を務めた幕府の重臣です。ところが慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いでは、藩主の留守を預かる淀藩が城門を閉じ、敗れて退いてきた旧幕府軍を城に入れませんでした。老中の藩に門を閉ざされたことは、旧幕府軍の総崩れを決定づけました(鳥羽伏見の戦いと新選組)。
曽根で天下の移り変わりを見届けた一鉄の子孫が、二百七十年後、一方は九州で中立を守り、もう一方は幕府の中枢にいながら最後に門を閉ざしたことになります。
同じころの日本—家康の死と日光東照宮
大御所の死 曽根藩の西尾光教が揖斐へ移ってから十数年後の元和二年(1616)四月、徳川家康が駿府で亡くなりました。七十五歳でした。家康の遺体は駿河の久能山に葬られ、翌年、下野の日光に移されて「東照大権現」として祀られます。
元和偃武 大坂の陣で豊臣家が滅び、家康が亡くなったこの時期は、長く続いた戦乱が終わり、平和な時代が始まった時期として「元和偃武」と呼ばれます。曽根藩のような小さな藩が次々に組み替えられていったのも、新しい時代の大名の配置が整えられていく過程の一つでした。

