金山藩/松平家2万5千石:松平忠頼 遠州浜松藩へ移封のため廃藩

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金山藩の歩み

天正十年(1582年)三月の「甲州討伐」で武功を挙げたため、「鬼武蔵」と称された「森長可」は金山と北信濃4郡、あわせて二十万九千七百石を与えられました。同年六月、信長が「本能寺の変」にて明智光秀により討たれると上杉氏や武田氏遺臣による反乱を恐れて北信濃を放棄し金山に戻り、以後は「羽柴秀吉」の家臣となりました。しかし長可は天正十二年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で徳川軍の攻撃に遭って戦死してしまいました。

金山藩/場所・アクセス・地図 松平家2万5千石:松平忠頼 遠州浜松藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

長可の死後、家督は本能寺の変で戦死した蘭丸・坊丸・力丸の弟「森忠政」が継ぎました。忠政は関ヶ原直前の「徳川家康」の多数派工作で北信濃十三万七千五百石を与えられました。そして「関ヶ原の戦い」では東軍に与して戦功を挙げたため、美作国津山藩へ加増移封となりました。

代わって金山には武蔵国松山から桜井松平家の「松平忠頼」が一万五千石加増されて二万五千石で入封し金山藩が立藩しました。忠頼は慶長六年(1601年)四月に遠州浜松藩へ移封となり金山藩は廃藩しました。その所領は天領、元和元年(1615年)からは尾張藩領となりました。そして明暦二年(1656年)、金山は兼山と改められました。

【廃藩のあと—幕末の兼山】木曽川をさかのぼった塩と、下った材木

金山の藩は慶長六年(1601年)に松平忠頼が遠江の浜松へ移って消えました。城もその前年に廃され、建物は木曽川を下して犬山城の改修に使われたと伝えられます。以後この地は幕府領を経て、元和元年(1615年)から尾張藩の領地となります。明暦二年(1656年)には村の名が「金山」から「兼山」へ改められました。

木曽川の最終荷揚げ湊

藩がなくなったあとの兼山を支えたのは、川湊でした。兼山湊は木曽川の上流で最後の荷揚げ湊で、下流からは塩と海の魚が上ってきました。この扱いについては魚屋町が専売の権利を持っていたと可児市は説明しています。呉服や天然の氷も扱われました。

逆に川を下っていったのは材木です。尾張藩が経営する木曽の山から出る御用材、そして伊勢神宮の遷宮に使われる御用材がここを通りました。さらに岩村藩は江戸へ送る廻米をこの湊で船に積んでいます。山の材木と海の塩が行き交う結び目だったわけです。ただし江戸末期には下流の新村湊や野市場湊の利用が増え、兼山湊はしだいに衰えていきました。舟運そのものが終わるのは昭和十四年(1939年)のダム完成と陸の輸送の整備によります。

可児郡の入り混じった支配

幕末の可児郡は、支配がかなり入り混じっていました。明治初年の記録では、幕府領が二十一村(美濃郡代の支配)、尾張藩領が四十八村(太田代官所などが管轄)、旗本領が十五村です。一つの郡のなかに三種類の領主が並んでいたことになります。

石垣と石畳が残る

美濃金山城跡は平成二十五年(2013年)十月十七日に国の史跡に指定されました。曲輪、土塁、井戸、堀、そして石垣が残ります。城の建物が犬山へ運ばれたという伝承がある一方で、石は動かせないまま残ったことになります。

そして兼山湊の跡も岐阜県の史跡になっています。石畳と、船問屋が建てた常夜灯が現存します。藩が一年足らずで消えた土地に、湊の石畳が二百数十年分の商いの跡として残っているわけです。廃藩置県の前後、この地域は笠松県から名古屋県を経て、明治四年(1871年)十一月に岐阜県へ入りました。

森家の城・美濃金山城

金山城は、もとは美濃の斎藤氏の一族が木曽川沿いの古城山(標高約二百七十メートル)に築いた山城で、永禄八年(1565)ごろ、織田信長の重臣・森可成が城主となりました。以後、可成の子の長可、そして忠政と、森家三代の本拠となります。可成の子のうち、蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟は本能寺の変で信長とともに討たれ、「鬼武蔵」と呼ばれた次男の長可も小牧・長久手の戦いで討ち死にしました(森一族のことは三日月藩も参照)。

長可は長久手の戦いに出る前に遺言状を書き残しており、そこには家族の身の振り方などについての細やかな指示がつづられていました。荒々しい武勇で知られた長可の、家族を思う一面を伝える史料として知られています。

城跡は「美濃金山城跡」として国の史跡に指定され、山頂の本丸跡には石垣の一部や礎石が残っています。森家が去ったあと、城の建物は木曽川を下って犬山城の改修に使われたとも伝えられ、犬山城の天守にも金山城から移されたものがあるという言い伝えがあります(現在は否定的な見方が有力です)。

金山を出た松平忠頼の家

森家のあとに金山に入った松平忠頼は、家康の甥にあたる桜井松平家の当主で、のちに浜松で不慮の死をとげました(三河水野藩)。その家は摂津の尼崎藩主として幕末を迎えています(尼崎藩)。

金山藩をもっと詳しく

藩の成り立ち—「藩」と呼ぶかどうか

金山藩は、関ヶ原の戦いの後のごく短いあいだ、松平忠頼が美濃国可児郡の金山城(今の岐阜県可児市、旧兼山町)を預かった領地を「藩」としてとらえた呼び方です。忠頼はもともと武蔵松山で一万石を持っていましたが、戦いの後に尾張の犬山城の城番を務めるとともに、家康の命で金山城にも入って守りにつき(在番)、このとき「金山領」一万五千石を与えられました。これを金山藩の始まりとみる見方があります。

森家が去ってから松平忠頼が来るまでの間には、もう一人の領主がいました。森忠政が北信濃へ移った後、金山は犬山城主の石川貞清(光吉)の領地となりましたが、貞清は西軍について犬山城で抗戦し、関ヶ原の本戦でも戦ったため、戦後に改易されています。なお、忠政の北信濃への移封は慶長五年(1600年)二月一日の家康の宛行状によるもので、秀吉の死後は大名の領地の移動を五大老の連名で行うという約束を無視したものでした。北信濃から豊臣家の直轄地をなくし、徳川家への備えをくずすねらいがあったとする解釈もあります。

藩の終わり

忠頼は慶長六年(1601年)四月(『寛政重修諸家譜』では二月)、加増されて五万石で遠江浜松へ移り、金山藩は一年足らずで消えました。金山城は同じころ、犬山城主となった小笠原吉次によって取り壊されたとされ、その後の金山は幕府の代官の支配を経て、元和元年(1615年)から尾張藩領となりました。

先祖—桜井松平家

忠頼の家は「桜井松平家」と呼ばれ、松平氏の分家「十八松平」の一つです。安城松平家の松平長親の子・信定を祖とするのが通説で、三河国碧海郡桜井(今の愛知県安城市桜井町)の桜井城を本拠としました。信定は家康の祖父・松平清康が守山崩れで亡くなると岡崎城を押さえ、清康の子・広忠を追い出しましたが、家臣の多くは広忠を支持し、信定は岡崎城を手放しました(宗家の地位を狙ったのではなく謀反を鎮めるためだったとする説もあります)。その後も桜井松平家は宗家に敵対的で、孫の松平忠正の代には三河一向一揆の際にも宗家に背きましたが、一揆が鎮まった後は宗家に従いました。

忠頼は天正十年(1582年)の生まれで、母は家康の異父妹にあたる多劫姫です。関ヶ原の戦いの際には家康に従って西へ向かう途中、三河の岡崎城の守りを任されています。

藩主家のその後と明治以降

浜松へ移った忠頼は、慶長十四年(1609年)、親族の水野忠胤の江戸屋敷に招かれた席で、同席した者どうしの争いを止めようとして刺され、二十八歳で亡くなりました。『徳川実紀』は、争いのきっかけは囲碁で、忠頼が一方に助言したことだったと伝えています。跡継ぎがいなかったため家はいったん改易されましたが、弟の松平忠重が上総佐貫藩主として家の再興を許されました。その後、駿河田中、遠江掛川、信濃飯山などを経て、摂津尼崎藩四万石として幕末を迎えています。

最後の尼崎藩主・忠興は明治元年(1868年)に名字を「松平」から「桜井」に改め、明治十七年(1884年)に子爵となりました。また忠頼の三男・忠勝の家は紀州藩に仕え、その子孫から十四代将軍・徳川家茂の生母である実成院が出ています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万五千石のこの藩はおよそ五百九十人が目安です。ただし金山藩は慶安より前に消えた藩なので、これは後の時代の物差しを当てた参考値です。またこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「金山藩」「松平忠頼」「桜井松平家」

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