谷村藩の歩み
秋元氏が城主の時代には藩政機構が整備されていたが、宝永元年(1704年)12月に「秋元喬知」が武蔵国「川越藩」に移封され、川越藩主であった「柳沢吉保」が甲府城主となり「谷村藩」は廃藩となります。
郡内付近は天領となり、翌年2月には「谷村城」も破却されます。武家屋敷も引き払われ、谷村の地は商業的要地として城下町から商業町場へと変貌します。後に甲斐一国は天領(幕府領地)となり代官支配となります。そして谷村も官所支配へと変わります。幕末に入ると甲府に城代が置かれることになり谷村の地もその管轄下に置かれました。
廃藩のあと—幕末の谷村
宝永元年(1704年)に秋元喬知が武蔵川越へ移って廃藩となり、翌年には谷村城も壊されました。享保九年(1724年)に甲斐一国が幕府領となってからは、郡内は石和代官所の出張陣屋である谷村代官所が支配し、そのまま明治まで続きます。
秋元家はこの地に大きな置き土産を残していました。上野国から持ち込んだ織物の技術です。身分を問わず家臣にも織らせて産地に育て、江戸や京坂で人気を得ました。江戸の越後屋—いまの三越が、谷村に支店を置いたほどです。この織物はのちに「甲斐絹」と呼ばれ、幕末から明治には海外へも輸出されました。
そしてその郡内で、天保七年八月十七日(1836年9月27日)の夜、大きな一揆が起こります。郡内騒動、天保の甲州騒動です。発火点はまさにこの谷村で、米穀商への打ちこわしから始まりました。指導者は無宿の親分・武七と旅籠屋の兵助。一揆は笹子峠を越えて国中へ広がり、甲府の城下にまで乱入します。五百人以上が捕らえられ、頭取ら九人が死罪、三十七人が遠島となりました。武七は磔と決まりましたが、その前に牢死しています。
産業を育てた藩が去ったあと、その産業で成り立っていた土地が、米価の高騰で燃え上がったことになります。
なお慶応四年三月の甲州勝沼の戦いですが、近藤勇の甲陽鎮撫隊は甲州街道を進んでおり、谷村は街道から南に外れた富士みち沿いにあるため、通過も戦闘もしていません。
谷村城跡に遺構はなく、いまの都留市役所から谷村第一小学校のあたりです。谷村陣屋跡の石碑は甲府地方裁判所都留支部の敷地内にあります。明治五年、ここが谷村裁判所になりました。勝山城跡は県指定史跡で、高石垣や土塁、堀切が残ります。
総社藩/秋元家一万五千石:秋元泰朝 幕末前に甲斐谷村藩に加増移封のため廃藩
館林藩/秋元家六万石:秋元礼朝 新政府軍に恭順し奥羽戦線に派兵した館林藩
村山藩/本多家一万石:本多助芳 糸魚川藩への移封にて廃藩
武田勝頼を見捨てた郡内の領主・小山田信茂
谷村のある甲斐の郡内地方は、戦国時代には武田家の重臣・小山田氏が治めた土地でした。天正十年(1582)、織田・徳川の軍勢に攻め込まれた武田勝頼は、新府城を捨てて小山田信茂の岩殿城を頼ろうとします。ところが信茂は土壇場で勝頼を裏切り、郡内への道を閉ざしました。行き場を失った勝頼は天目山の麓の田野で一族とともに自害し、武田家は滅びます。信茂自身も、主君を見捨てた不忠を咎められて織田信忠に処刑されました。郡内は、武田家の最期を決めた土地でもあったのです。
秋元家の前の谷村城主・鳥居成次
秋元家より前に谷村城を治めたのは、伏見城で討ち死にした鳥居元忠の三男・鳥居成次でした。成次は郡内で城と城下町を整えましたが、二代将軍秀忠の三男・徳川忠長の付家老となったことが運命を分けます。寛永九年(1632)に忠長が改易されると、成次の子・忠房も連座して領地を失いました(同じく忠長に仕えて失脚した安房三枝藩の三枝守昌も参照)。そのあとに入ったのが秋元家です。
秋元家は谷村から川越、山形を経て上野の館林に移り、幕末を迎えました(館林藩主・秋元志朝と長州藩とのつながりは総社藩の項にくわしく書いています)。谷村に甲斐絹のもとを残した家は、幕末には長州との縁に揺れる家になっていました。
八瀬の人々がまつった老中—秋元喬知と新倉掘抜
戸田忠昌の長男が、秋元家へ
谷村藩主・秋元喬知は、のちに老中となる戸田忠昌の長男です(天草富岡藩)。男子のいない母方の祖父・秋元富朝の養子となり、明暦三年(1657年)に九歳で家を継ぎました。奏者番、寺社奉行、若年寄を経て、元禄十二年(1699年)から亡くなるまで老中を務めています。谷村時代に加増が重なり、川越へ移る前には合わせて約四万石になっていました。家格は譜代です。
正徳の治を支えた土木の総奉行
喬知は江戸城三の丸、護国寺、寛永寺中堂の造営奉行を務め、元禄大地震の復興総奉行、禁裏の造営奉行も担当しました。新井白石が進めた正徳金銀の鋳造でも総奉行を務めていて、正徳の治を支えた数少ない老中の一人とされます。
八瀬の秋元神社と赦免地踊
宝永七年(1710年)、京都の八瀬の村は比叡山との境界争いで不利な裁定を受けましたが、喬知の尽力で覆りました。八瀬の人々は喬知が亡くなったあと、八瀬天満宮の本殿の横に秋元神社を建ててまつりました。いまも例祭で奉納される「赦免地踊」は、京都市の無形民俗文化財です。甲斐の殿様が、遠い京の村で神様になったのです。
河口湖の水を引く新倉掘抜
谷村藩の時代には、河口湖の水を船津から新倉村へ引く手掘りのトンネル「新倉掘抜」が計画されました。全長約三・八キロメートルで、手掘りのトンネルとしては日本最長とされます。秋元家が川越へ移ると工事は放棄され、完成したのは元治二年(1865年)でした。船津の新倉掘抜史跡館では、トンネルの中を見学できます。用水を引き、山を掘り、遠い村を救った。谷村藩の秋元家は、土木と調整の力で名を残した家だったと思います。



