【藩名】
村山藩
【説明】
天和2年(1682年)2月22日、遠江国横須賀藩5万石の藩主であった「本多利長」は、播磨国明石藩6万石の藩主であった「本多政利」の改易に連座して改易されました。その後、政利が陸奥国岩瀬藩1万石の藩主として復帰を許されると、利長も新たに1万石を与えられて「村山藩」を立藩しました。
利長は元禄5年(1692年)12月に死去し、後を養嗣子の「本多助芳」が継ぎました。その助芳は元禄12年(1699年)6月に越後国糸魚川藩に移封され、ここに村山藩は廃藩となりました。
【廃藩のあと——幕末の村山は、群馬の藩の飛地だった】
本多利長が元禄十二年(1699年)に越後糸魚川へ移って廃藩となったあと、村山郡は幕府領・旗本領・大名領に細かく分かれ、領主権の錯綜した地域になりました。なお村山藩の陣屋がどこにあったかは、いまも分かっていません。
中心である楯岡村の領主は目まぐるしく変わります。山形藩領、幕府直轄領、陸奥白河藩領と移り、弘化三年(1846年)以降は上野館林藩・秋元家の領地となりました。二百キロ以上離れた群馬の藩の飛地です。館林藩は山形の内陸に四万六千石ほどを持ち続け、漆山陣屋には嘉永年間から明治初年まで、およそ三百人の藩士とその家族が常駐していました。
そして慶応四年(1868年)、村山は庄内藩の進退路そのものになります。四月二十五日、庄内藩の酒井順孝勢が六十里越街道を通って柴橋陣屋を急襲。二十七日には谷地北口の新庄藩陣屋に討ち入って放火しました。閏四月四日に庄内藩と奥羽鎮撫総督の政府軍が正式に開戦し、同じ日、庄内軍の松平了恒が楯岡に、酒井順孝が長瀞に陣を張っています。翌五日には庄内へ引き揚げました。
このとき庄内勢は天童の城と市街の南半分二百三十戸を焼いています。藩主の命令によらない現地軍の暴走とされます。閏四月七日には天童藩軍が長瀞陣屋を襲って焼き払いました。住民の嘆願で米蔵だけは焼失を免れています。
楯岡を支配していた館林藩の漆山陣屋も綱渡りでした。四月に庄内藩追討を命じられて最上川沿いで銃撃戦を行い、閏四月下旬には庄内へ兵糧二百俵を差し出して宥和を図り、五月の奥羽越列藩同盟成立後は三十五名を出しています。
村山市域には最上川三難所——碁点・三ヶ瀬・隼があり、下り船にとって第一の難所とされました。いまは「最上川三難所舟下り」として舟が出ています。
総社藩/秋元家1万5千石:秋元泰朝 幕末前に甲斐谷村藩に加増移封のため廃藩
谷村藩/秋元家1万8千石:秋元喬知 川越藩へ移封のため廃藩
館林藩/秋元家6万石:秋元礼朝 新政府軍に恭順し奥羽戦線に派兵した館林藩
【村山藩・場所・アクセス】
山形県村山市
【村山藩マップ】

