下野富田藩/北条家1万石:北条氏重 遠江久野藩に移封され廃藩

【藩名】
下野富田藩

【説明】
慶長18年(1613年)、「北条氏勝」の養嗣子「北条氏重」が下総岩富藩から1万石で下野富田に入封して富田藩が立藩しました。氏重はさらに「大坂の陣」で戦功を挙げ、【現地取材】江戸城を歩くの普請役や日光東照宮の普請役、そして伏見城の城番などを務めました。この功績を賞されて、元和5年(1619年)富田から遠江久野藩に移封され富田藩は廃藩となりました。

目次

後北条氏の一族が、十年ほど治めた土地です

下野富田藩は慶長十八年(一六一三年)、北条氏重が下総の岩富から移されて成立しました。氏重は、あの後北条氏の一族にあたる人物です。

藩庁は富田陣屋、いまの栃木県栃木市大平町富田です。元和五年(一六一九年)に氏重が遠江の久野藩へ転じ、廃藩となりました。

(石高については、今回調べた範囲でははっきりした数字を確認できませんでした。一万石とみられます。)

北条氏重のその後

氏重は転封を繰り返します。遠江久野藩から下総関宿藩、駿河田中藩、そして遠江掛川藩へ。小田原を追われた家の一族が、各地を転々としたわけです。

同じ名前の藩が、ほかに二つあります

阿波の富田藩(徳島藩の支藩)と出雲の富田藩です。混同しやすいので注意が要ります。

氏重の家は、掛川で絶えました

富田を出た氏重は遠江久野、下総関宿藩、駿河田中と移り、慶安元年に遠江の掛川藩三万石に落ち着きます。しかし万治元年十月一日に六十四歳で亡くなったとき、子は五人とも女子で跡継ぎがなく、その年の十二月に改易となりました。後北条氏の血を引く大名家は、ここで途切れます。ただし一族の別の流れは残りました。氏勝の養子だった北条繁広の子・氏長が五百俵取りの旗本として遇され、甲州流の軍学者として北条流兵法の祖と呼ばれています。

陣屋の跡は、いま小学校になっています

富田陣屋は中世の富田城の跡地に構えられました。栃木市大平町富田の字城ノ内にあたります。主郭のあたりは大平西小学校で、校門の脇に城址碑と案内板があります。両毛線の線路が城域を分断していて、線路沿いに高さ五メートルほどの土塁が残っています。栃木市の文化財には指定されていません。

富田宿と、幕末の騒ぎ

富田は例幣使街道の宿場でもありました。天保十四年の調べでは宿内の家数が二百四十八、人別が八百四十八、旅籠が二十八軒あります。この街道筋は幕末に二度荒れました。元治元年、天狗党の乱の筑波勢が北隣の太平山に屯集し、六月五日には栃木宿が焼かれています。慶応三年十一月二十九日には出流山で百五十名ほどが挙兵し、十二月に栃木にあった足利藩の陣屋と撃ち合ったすえ、新里村で包囲されて壊滅しました。

【場所・アクセス・地図】

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