鴨方藩(岡山藩支藩)/池田家2万5千石:池田政保 岡山藩宗家と行動をともにした鴨方藩

鴨方藩(岡山藩支藩) 池田家2万5千石 最後の藩主 池田政保
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藩の歩み

鴨方藩は備中国の浅口郡・小田郡・窪屋郡を領有し藩庁は鴨方陣屋にありました。石高は二万五千石です。寛文十二年(1672年)、「池田光政」の次男「政言」が立藩しました。藩主はほとんど岡山城下に居住しており、江戸期を通じての名称は岡山新田藩で明治元年(1868年)に鴨方藩と改称しました。

慶応四年(1868年)三月十五日、父「章政」が宗家の岡山藩を継承したため、その後を受けて子の政保が鴨方藩主となります。明治四年(1871年)、廃藩置県により鴨方県となりました。

本家・岡山藩との関係

鴨方藩は、備前の岡山藩(池田家)の支藩です。池田家の分家が二万五千石を領しました。

戊辰戦争では、鴨方藩は本家の岡山藩と行動をともにし、新政府軍に従いました。最後の藩主は池田政保です。三十一万石の宗家・岡山を支えた池田一門の支藩でした。

鴨方の殿様が、岡山三十一万石を継ぎました

鴨方藩の形は少し変わっています。藩庁は鴨方陣屋にありましたが、歴代の藩主は岡山城下に住んでいました。江戸に住む定府とも違う、本家の城下に住む支藩という形です。この形だからこそ、岡山と鴨方を結ぶ道が要りました。それが鴨方往来で、岡山藩が整えた六つの官道の一つです。

名前についても一つ。江戸時代を通じての呼び名は岡山新田藩で、鴨方藩と改めたのは明治になってからです。ただし改称を明治元年とする資料と、明治二年に藩庁を鴨方村へ移して改称したとする資料があり、記述が分かれます。

この藩がいちばん大きく歴史に関わるのが、慶応四年(1868年)です。本家の岡山藩主池田茂政は、水戸の徳川斉昭の九男、つまり十五代将軍徳川慶喜の実弟でした。尊王攘夷を唱えて長州への寛大な処置を朝廷に願ったため、幕府からは長州と通じているのではないかと疑われます。

そして慶喜への追討令が出ます。兄を討つ軍に、弟は加われませんでした。茂政は病を理由に隠退を願い出て、慶応四年三月十五日に家督を養嗣子へ譲ります。その養嗣子が、鴨方藩主だった池田章政です。鴨方の殿様が、三十一万石の宗家を継いだことになります。岡山藩は討幕軍に加わり、賞典禄二万石を受けました。

その岡山藩兵が、思わぬところで戦っています。慶応四年閏四月七日、上総の五井戦争です。養老川をはさんだ戦いで、岡山藩兵は大村藩兵とともに右翼隊の主力を務めました。備前の兵が房総で旧幕府の撒兵隊と撃ち合ったわけです。

鴨方陣屋の跡は浅口市鴨方町鴨方にあります。いまは黒住教の教会と長川寺の敷地の一部となり、石垣と井戸がわずかに残ります。浅口市による説明板が立ち、陣屋の建物の配置が記されています。

名君・池田光政の次男が立てた藩

鴨方藩を立てた池田政言(まさこと)の父・池田光政は、江戸時代前期を代表する名君の一人です。姫路城を築いた池田輝政の孫にあたり、寛永九年(1632)に備前岡山三十一万五千石の藩主となりました。光政は儒学を重んじ、陽明学者の熊沢蕃山を招いて藩政を任せ、洪水対策の治水や新田開発、質素倹約を進めました。

光政がとくに力を入れたのが教育です。藩士の子弟のための藩校・岡山藩学校に加え、寛文十年(1670)には、庶民の子どもも学べる学校として閑谷学校(しずたにがっこう、いまの岡山県備前市)を開きました。のちに建てられた講堂は、備前焼の瓦をのせた堅牢な建物で、国宝に指定されています。鴨方藩は、この光政が晩年の寛文十二年(1672)に次男に分け与えた領地から生まれました。

二代続けて本家を継いだ鴨方の家

鴨方の池田家は、幕末に本家・岡山藩に藩主を送り出しただけではありません。最後の鴨方藩主・池田政保は、本家を継いだ章政の子で、父のあとを受けて鴨方を継ぎました。本家に跡継ぎがいないときに藩主を出すという支藩の役目を、鴨方藩は幕末の決定的な場面で果たしたことになります。光政の血筋は、こうして岡山の本家と鴨方の分家の両方で明治まで続きました。

殿様がほとんど来ない藩から出た文人—鴨方藩と浦上玉堂

御用場と町家公園

鴨方藩は岡山藩池田家の分家ですが、藩主は鴨方にはほとんど行かず、現地には「御用場」という役所を置いて治めていました。御用場の石垣はいまも残っています。陣屋跡のすぐ東にある「かもがた町家公園」は、地元の名家・高戸家の屋敷で、藩主が鴨方に来たときの宿にもなりました。岡山県内で最も古い町家建築があり、名物の鴨方そうめんも味わえます。

浦上玉堂—藩を出た画家

岡山城下の天神山には鴨方藩の屋敷があり、画家の浦上玉堂はそこで生まれました。玉堂は大目付も務めた上級藩士でしたが、五十歳ごろに武士をやめ、二人の子どもを連れて藩を出ます。代表作「凍雲篩雪図」は国宝で、川端康成が愛蔵したことで知られます。玉堂は、二十八歳で亡くなった主君・池田政香の一代記『止仁録』も書いています。鴨方の儒学者・西山拙斎は、幕府に朱子学を重んじるよう説き、寛政異学の禁のきっかけをつくったともいわれます。

岡山藩主を出した家

最後の岡山藩主・池田章政は、肥後人吉藩主・相良頼之の次男で、鴨方藩の養子となってから本家を継ぎました。正室は大垣藩主・戸田氏正の娘です。最後の鴨方藩主・政保は数え四歳で藩主となり、明治十七年に子爵となりました。また鴨方藩は寄島港(早崎港)の整備にも関わったとされ、寄島は廻船と干拓で栄えた港町でした。

殿様がいないから、文人が育った

藩主が不在がちの小藩から、国宝を描いた画家と、幕府の学問を動かした儒学者が出る。藩の規模や殿様の存在感と、文化の豊かさは必ずしも比例しないようです。鴨方を歩くなら、殿様の跡よりも、玉堂や拙斎の足跡を探してみたいと思います。

鴨方藩をもっと詳しく

家老の養子から藩主へ—初代・政言

鴨方藩を開いた池田政言は、はじめから大名になる道を歩んでいたわけではありません。慶安2年(1649年)、政言は岡山藩の家老・池田政信の養子になっています。ところが寛文12年(1672年)、父の光政が隠居して兄の綱政が藩主になるとき、備中の新しく開いた田(新墾田)2万5,000石を政言に分け与えることが幕府に認められ、政言は大名となりました。政言は文武にすぐれ、和歌もよくし、道徳を重んじた政治を行ったとされます。大名の評判を集めた『土芥寇讎記』では、兄の綱政と比べられたうえで高く評価されています。元禄13年(1700年)8月19日に56歳で亡くなり、長男の政倚が跡を継ぎました。藩主の家はこのあと10代続きます。

本藩に頼る新田藩のしくみ

同じ寛文12年には、光政の三男・輝録も1万5,000石を分けられて生坂藩を開いています。生坂藩の石高は岡山藩の石高の内に数えられており、どちらも本藩から分かれた支藩でした。江戸時代を通じて鴨方藩は「岡山新田藩」と呼ばれていました。領地は備中の浅口郡・小田郡・窪屋郡の3郡にありましたが、藩主は岡山城下の屋敷に住み、政治と財政は本藩に頼っていました。城を持たない「無城」の大名で、岡山の本家とは石高も格式も大きく違う、本藩を支える分家という立場です。藩の運営は家老・中老・小仕置・郡代・判形・大目付・御留方による話し合いで行われ、評定所はなく、勘定所で相談していたと考えられています。

鴨方陣屋の姿

鴨方の陣屋は、もとは「御用場」と呼ばれた役所で、藩主が住むための建物ではありませんでした。岡山大学附属図書館に残る絵図には、表御門、溜長屋、御座敷、吟味場、御囲米御蔵(非常用の米の蔵)、牢番詰所などが描かれており、敷地は東西約56.8メートル、南北約32.7メートルでした。置かれた時期ははっきりせず、明和6年(1769年)から文政6年(1823年)の間とみる説と、元治元年(1864年)に9代政詮が置いたとする資料があります。元治元年には陣屋の北側に「御陳屋」がつくられ、稽古場や大砲置場、宿舎、射撃場を備えて兵の訓練が行われました。幕末の緊張は、殿様のいない鴨方にも及んでいたのです。

陣屋の後ろの鴨山城

陣屋の背後の山には、中世の鴨山城がありました。応永14年(1407年)に細川満国が築いたとされ、南北朝時代の細川義春が築いたとする説もあります。細川氏が8代にわたって城主だったと伝わりますが、在城が確かめられるのは戦国時代の末の通董と元通の2代だけです。通董は天正3年(1575年)にこの城へ移り、元通は関ヶ原の戦いで毛利方について領地を失い、長州へ移りました。これで鴨山城は廃城となります。城は山頂の本丸から北と南東へ「く」の字形に曲輪が延びる、長さ約250メートルの山城で、南東の曲輪には大きな石を使った野面積みの石垣が残っています。北側の第一の曲輪と第二の曲輪の間には尾根を断ち切る堀切があり、中世の山城らしく天守はありませんでした。鴨方城、加茂山城、清滝山城という別名もあります。

廃藩と、動員の目安

10代の政保は明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県のあと東京へ移りました。藩の領地は鴨方県、深津県、小田県を経て、明治8年(1875年)に岡山県に入っています。慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるもの(1万石あたり235人)を2万5,000石にあてはめると、動員できた兵はおよそ590人になります。ただし、この規定は案のままで発布されなかったとする説もあります。

岡山藩を継いだ池田章政の生家については、人吉藩のページもご覧ください。

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