藩の歩み
生坂藩は備中国窪屋郡生坂(岡山県倉敷市)周辺を領有した藩で、石高は一万五千石でした。寛文十二年(1672年)、池田光政の三男「輝録」が立藩し藩主は岡山城下に居住していました。
文久三年(1863年)、上京して御所の警備を務めました。慶応三年(1867年)十二月には再び上京し、翌慶応四年(1868年)からの「戊辰戦争」では本家の岡山藩と共に新政府軍に与しました。そして大津口の警備や尾張藩への進軍などで功を挙げています。
江戸期を通じての名称は岡山新田藩で、明治三年(1870年)に生坂藩と改称しました。明治四年(1871年)廃藩置県により生坂県となりました。
本家・岡山藩との関係
生坂藩は、備前の岡山藩(池田家)の支藩です。池田家の分家が一万五千石を領しました。
戊辰戦争では、生坂藩は新政府軍に従い、大津の警備や、佐幕とみられた尾張方面への進軍で功をあげました。最後の藩主は池田政礼です。宗家・岡山とともに官軍を支えた池田一門の支藩でした。
陣屋を持ったのは最後の一年半
生坂藩は岡山藩から分かれた支藩で、江戸時代の名は岡山新田藩でした。鴨方藩と対になる二つの新田分家の一つです。
城下に住み、岡山城で政務をとる藩
この藩の実態を知るうえで大事なのは、江戸時代を通じて領内に陣屋がなかったという点です。藩主は岡山の城下に屋敷を構えて住み、藩の政務は岡山城で処理されていました。つまり石高の上では一万五千石の大名でありながら、独自の藩庁を持たない藩だったわけです。
現地に藩庁が置かれたのは、明治三年(1870年)一月のことでした。備中国窪屋郡生坂村、いまの倉敷市生坂にある東雲院の境内に藩庁を設け、このとき藩名も生坂藩に改めます。ところが明治四年(1871年)七月の廃藩置県で藩そのものがなくなりますから、陣屋を持った藩としての生坂藩は一年半ほどしか存在しなかったことになります。
大津の警備と、尾張への進軍
幕末の藩主は池田政礼です。嘉永二年(1849年)に生まれ、安政二年(1855年)に父の隠居を受けて家督を継ぎました。文久三年(1863年)には上京して御所の警備にあたり、戊辰戦争では大津口の警備と尾張方面への進軍で功を挙げています。本家の岡山藩が早くから新政府側に立ったため、支藩もその動きに従いました。明治三年正月に生坂藩知事となり、翌年の廃藩置県で免官、九月に東京へ移ります。明治十七年(1884年)に子爵を授けられ、明治四十年(1907年)に亡くなりました。
長屋門が残っている
この藩には、思わぬ形で残った建物があります。岡山城下にあった生坂の屋敷から明治四十二年(1909年)ごろに移された長屋門が、現在の林原美術館の門として使われているのです。木造平屋の瓦葺きで、江戸後期の建築とされ、蔵とともに国の登録有形文化財になっています。文化財の解説も「池田家、生坂家の遺構としても貴重」と述べています。陣屋を持たなかった藩の建物が、城下の屋敷の門として残ったことになります。
廃藩後は生坂県となりましたが、備中が深津県に編入されたあとも旧生坂県と旧鴨方県の管轄地はしばらく岡山県に属しました。深津県はのちに小田県となり、明治八年(1875年)に岡山県へ合併されています。
藩主が暮らした岡山城と後楽園
生坂藩の藩主は領地に陣屋を持たず、本家の城下・岡山に住んでいました。その岡山城は、豊臣秀吉に重く用いられた宇喜多秀家が、慶長二年(1597)ごろに完成させた城です。黒い下見板張りの天守から「烏城(うじょう)」とも呼ばれます。秀家は豊臣家の五大老の一人として関ヶ原の戦いで西軍の主力を率いましたが、敗れて薩摩に逃れ、のちに八丈島へ流されて、八十歳を超えるまで島で生きました。
そのあと岡山を治めた小早川秀秋が二年で亡くなると、池田家が入り、明治まで岡山藩主を務めます。生坂藩を立てた池田輝録は、名君・池田光政の三男でした(光政と閑谷学校のことは鴨方藩の項を参照)。光政の子・綱政は、岡山城の対岸に大名庭園を造らせ、元禄十三年(1700)ごろに完成させました。これがのちの後楽園で、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに日本三名園の一つに数えられています。生坂の殿様たちも、この城と庭園のそばで暮らしていたのです。
岡山城の天守は昭和二十年(1945)の空襲で焼け、昭和四十一年(1966)に再建されました。
熊沢蕃山の養子だった藩祖と、林原美術館の長屋門
蕃山の跡を継いだ輝録
藩祖の池田輝録は、明暦3年(1657)に岡山藩の重臣・熊沢蕃山の養子となり、その知行3千石を継ぎました。のちに池田姓に戻っています。元禄15年(1702)から正徳3年(1713)まで奏者番を務めました。輝録が儒教を重んじたため、生坂の寺の住職や神主の多くが退去させられたと東雲院の記録に残るといいます。
八代の藩主
藩主は輝録、政晴、政員、政弼、政恭、政範、政和、政礼の8代と伝わります。最後の藩主・政礼は文久3年(1863)に京都へ上り、御所の警備を務めました。明治17年に子爵となり、跡は岡山藩主池田慶政の子・政時が養子として継いで貴族院議員を務めています。
岡山に残る屋敷門
岡山県の資料によると、林原美術館の長屋門は明治42年ごろに「生坂向邸」から移されたものです。長屋門とともに東蔵・中蔵・西蔵の三つの蔵も移されました。長屋門は江戸末期の建物で、土蔵造の入母屋造、本瓦葺きです。
考察:陽明学者の家を継いだ大名
熊沢蕃山の養子という出発点は、生坂藩の性格をよく表しているように思います。儒教を重んじて寺社に厳しく臨んだのも、蕃山の学問の影響があったのかもしれません。これは推測ですが、学者の家から生まれた支藩として興味深い存在です。
生坂藩をもっと詳しく
光政の隠居と同時に生まれた藩
生坂藩の始まりは、寛文12年(1672年)に岡山藩主・池田光政が隠居したことにあります。光政の跡は長男の綱政が継ぎ、このとき綱政から三男の輝録に1万5000石が分け与えられました。この1万5000石は、本藩の備中の領分から新田を含めて分けられたもので、本藩の朱印高の内から分知された形でした。石高が岡山藩の内高に含まれていたため、江戸時代を通じて「岡山新田藩」と呼ばれています。光政が次男と三男に領地を分けたのは、一門が絶えるおそれを減らすためだったといわれます。
若原家・熊沢家を経た藩祖
輝録は、はじめ若原監物の養子となり、のちに熊沢蕃山の養子に入りました。熊沢家にいたころの名は八之丞政倫で、明暦3年(1657年)に蕃山の知行3000石を継いで番頭を務めています。大名となったあと、正徳3年(1713年)11月26日に65歳で亡くなりました。法名は霊樹院殿古巌全崇大居士です。輝録の男子はみな早くに亡くなったため、跡は兄・綱政の孫にあたる政晴が養子として継ぎました。
最後の藩主・政礼とその後の家
最後の藩主・池田政礼は嘉永2年12月17日(1850年1月29日)の生まれで、7代藩主・政和の次男です。幼名は日升丸、官位は従五位下・丹波守でした。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で知藩事を免じられ、明治40年(1907年)10月7日に亡くなっています。跡を継いだ政時は、実子の政良が早くに亡くなったため、公家の姉小路公政の子・政英を養子に迎えました。政時と政英もそれぞれ子爵となり、家は華族として続いています。
生坂向邸と池田家文庫
岡山城下にあった生坂家の屋敷は「生坂向邸」と呼ばれました。林原美術館に移された長屋門と3棟の土蔵のうち、東蔵に納められていた古文書群「池田家文庫」も、こうして後の世に伝えられました。陣屋を持たず岡山城で政務をとった藩らしく、藩の記憶は領地よりも岡山の城下に多く残っています。藩の領地は、いまの倉敷市の一部と総社市の一部にあたります。
ふたつの「岡山新田藩」
江戸時代に「岡山新田藩」と呼ばれたのは、生坂藩だけではありません。光政の次男の家である2万5000石の鴨方藩も、同じく岡山新田藩と呼ばれていました。鴨方藩の藩主も岡山城下に住んで現地にはほとんど出向かず、領地には「御用場」と呼ばれる役所を置いていました。その石垣はいまも浅口市に残っています。明治になってから名を改め、現地に陣屋を設けた点も生坂藩と同じです。違いが出たのは幕末で、鴨方藩主だった池田政詮が本家に入って章政と名を改め、最後の岡山藩主となりました。一方の生坂藩は、明治3年(1870年)に東雲院を仮の藩庁としてから、わずか1年あまりで廃藩置県を迎えています。
1万5000石の動員の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっています。これを生坂藩の1万5000石に当てはめると約352人で、十人単位に丸めた動員兵力の目安はおよそ350人です。この規定は案のまま発布されなかったとする説もあります。
同じ窪屋郡の浅尾藩と倉敷浅尾騒動
生坂藩と同じ備中の窪屋郡には、旗本から大名に戻った蒔田家の浅尾藩も領地を持っていました。慶応2年(1866年)4月、長州の第二奇兵隊を脱走した一党が倉敷代官所と浅尾の陣屋を続けて襲った倉敷浅尾騒動は、生坂藩の領地の近くで起きた事件です。一党は追討を受けて長州領へ逃れ、その2年後には、生坂藩も本家の岡山藩とともに新政府側として戊辰戦争に加わることになりました。



