【現地取材】二本松城(霞ヶ城)と二本松少年隊 ― 少年たちが散った落城の悲劇

福島県二本松市の霞ヶ城(かすみがじょう=二本松城)。総石垣の美しいこの城は、戊辰戦争で十二歳から十七歳の少年たちが散り、家老が自刃し、城が自らの手で焼き払われた――東北の戊辰戦争のなかでも、とりわけ悲痛な落城の舞台となりました。二本松少年隊の群像の前に立つと、その無念が今も胸に迫ります。今回はその現地取材の記録です。

目次

丹羽家十万七千石の城 ― 霞ヶ城

二本松城は、江戸時代のはじめに丹羽光重が近世城郭として整えた、丹羽家十万七千石の居城です。山麓の箕輪門(みのわもん)から山上の本丸まで、斜面を総石垣で固めた壮大な平山城で、「霞ヶ城」の雅名で親しまれてきました。今も復元された箕輪門と、山肌を這うように積まれた見事な石垣、深い空堀や土塁が、往時の堅城ぶりを伝えています。

空虚な城 ― 主力は各地の戦線へ

慶応四年(一八六八年)、二本松藩は奥羽越列藩同盟の一員として、白河口をはじめ各地の戦線へ次々と兵を送り出していました。現地の案内板は、そのため新政府軍が迫った七月末、「城内・城下は空虚同然であった」と記しています。折しも同盟の一角だった三春藩が七月二十六日に新政府へ降伏したことで、新政府軍は一気に二本松へと進撃してきました。守る兵の乏しい城に、破局が近づいていたのです。

二本松少年隊 ― 母が縫った肩印

兵の出払った緊迫のなか、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣を許可します。案内板によれば、十二歳から十七歳までの少年六十二名が出陣しました。七月二十九日、城への要衝・大壇口(おおだんぐち)では、隊長木村銃太郎に率いられた少年二十五名が果敢に戦います。少年隊の群像は、隊長と少年隊士、そして我が子の出陣服に、藩主・丹羽家の家紋である「直違紋(すじかいもん)」の肩印を、万感の思いで縫い付ける母の姿をあらわしたもの。群像の建つこの一帯は「千人溜(せんにんだめ)」と呼ばれ、藩兵が集合した場所であり、少年隊士もここから戦場へ向かったといいます。

出陣の少年と、肩印を縫う母。二本松少年隊群像は見る者の胸を打つ
出陣の少年と、肩印を縫う母。二本松少年隊群像は見る者の胸を打つ

落城 ― 家老の自刃と炎上

藩主丹羽長国(にわ ながくに)は、病身をおして城に留まろうとしましたが、家臣たちに無理やり駕籠へ乗せられ、二本松の北の水原へ、さらに仙台藩の護衛のもと米沢藩へと落ちのびていきました。城に残ったのは、軍事総裁の家老丹羽一学(富穀)ら重臣たちです。しかし多勢に無勢、七月二十九日の正午、ついに抵抗を断念すると、彼らは城に自ら火を放ち、富穀ら家老七名が自刃して果てました。二本松城は炎に包まれ、わずか一日の攻防で落城したのです。

石垣の下に咲く彼岸花。落城の記憶を包む城山の秋
石垣の下に咲く彼岸花。落城の記憶を包む城山の秋

霞ヶ城を歩いて

復元された箕輪門をくぐり、静まりかえった城山を歩くと、あの日ここが炎と砲煙に包まれたとは思えないほど、穏やかな時間が流れていました。それだけに、少年隊の群像――出陣する我が子に肩印を縫い付ける母の像の前では、言葉を失いました。大義に殉じた少年たちの無念と、送り出さねばならなかった母や藩の断腸の思いが、静かな石垣の城山に今も宿っているようでした。派手な遺構よりも、この「悲しみの記憶」こそが二本松城のかけがえのない財産なのだと感じた現地取材でした。

二本松城(霞ヶ城公園)へのアクセス・地図

二本松城跡はJR東北本線・二本松駅から徒歩圏内、霞ヶ城公園として整備され、箕輪門や総石垣を自由に見学できます。菊人形展や桜・紅葉の名所としても知られます。

▼ 二本松藩の歴代藩主や石高など、藩の詳しいデータはこちら
二本松藩の基礎データを見る(藩ページ)
▼ 二本松の孤立を早めた三春藩の降伏はこちら
三春藩の基礎データを見る(藩ページ)
▼ 主力が出払った先――白河口の激戦はこちら
白河小峰城・白河口の戦いの記事を読む

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次