渥美半島の付け根、三河湾に面した田原(現在の愛知県田原市)には、海と水堀に囲まれたことから「巴江城(はこうじょう)」とも呼ばれる田原城がありました。石高こそ一万二千石の小藩でしたが、幕末史に名を残す家老・渡辺崋山を輩出したことで知られる田原藩・三宅家の居城です。雨の中、その跡を訪ねてきました。
田原城とは——戸田氏が築いた”巴江城”
田原城は、文明12年(1480年)頃に戸田宗光によって築かれたと伝えられます。三河湾に突き出た渥美半島の付け根という立地から、海と水堀に囲まれた城の姿が巴(ともえ)の形に見立てられ、「巴江城」の別名で呼ばれました。江戸時代に入り建物の多くは失われましたが、石垣をはじめとする遺構は今も良く残り、二の丸櫓や大手門は昭和以降に再建されたものです。本丸跡には巴江神社が祀られ、郭内には田原市博物館が置かれています。

渡辺崋山と幕末の田原藩
田原藩の名を歴史に刻んだのは、家老として藩政を担った渡辺崋山です。天保3年(1832年)に登用された崋山は、人材登用のための給与改革や、飢饉に備える備蓄制度(義倉制度)の整備を進め、天保の大飢饉から藩を救いました。優れた画家であり蘭学者でもあった崋山は、外国船の来航に備えて海防の必要を説きましたが、その開明的な言論が幕府に警戒され、蛮社の獄で処罰されたのち、自ら命を絶ちます。小藩の家老でありながら時代を先取りした知識人の悲劇として、崋山の名は今も語り継がれています。崋山の死後は農政家・大蔵永常らによる藩政改革が進められ、村上範致による軍制改革で大砲の鋳造や洋式砲術の導入も進みました。幕末の動乱期は村上範致の尽力もあって難局を乗り切り、最後の藩主・三宅康保は明治2年(1869年)の版籍奉還で田原藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で田原藩は幕を閉じました。田原藩の詳しい歩みは全藩情報のページでも紹介しています。

現地を歩いて感じたこと
雨に煙る田原城跡は、静かで落ち着いた雰囲気に包まれていました。本丸跡の巴江神社に手を合わせ、田原市博物館では渡辺崋山ゆかりの資料に触れることができます。小藩でありながら、一人の家老の生き様がこれほど深く記憶される城も珍しく、渥美半島の海風の中に立つと、崋山が案じた「海防」という言葉の重みが自然と伝わってくるようでした。
アクセス(所在地)
田原城跡は愛知県田原市田原町にあります。豊橋鉄道渥美線・三河田原駅から徒歩約10分です。
まとめ
田原城は、海に囲まれた渥美半島の小藩・田原藩の居城として「巴江城」の名で親しまれてきました。石高こそ小さいものの、家老・渡辺崋山という時代を先取りした人物を輩出し、その悲劇的な最期とともに幕末史にその名を刻んでいます。海風の吹く城跡に立ち、崋山が生きた時代に思いを馳せてみてください。各藩の歴史は全藩情報もあわせてどうぞ。

