【現地取材】江戸総鎮守・神田明神と幕末——将軍も祈った社、維新の転換

幕末の江戸に生きた武士や町人たちは、どこに手を合わせていたのでしょうか。その中心の一つが、江戸の総鎮守(そうちんじゅ)として崇められた神田明神(かんだみょうじん/正式には神田神社)です。前回訪ねた幕府の最高学府・昌平坂学問所(湯島聖堂)からもすぐ近く、学問と信仰が隣り合うこの神社を実際に訪ねてきました。その歴史には、幕末から明治維新への価値観の転換を映す、興味深いエピソードも隠されています。

目次

神田明神とは——江戸の総鎮守

神田明神は、江戸の町全体を守る「総鎮守」として、古くから篤い信仰を集めてきた神社です。江戸城から見て北東(表鬼門)の方角に位置し、都を災いから守る要(かなめ)とされました。祀られているのは、縁結びで知られる大己貴命(おおなむちのみこと=だいこく様)、商売繁盛の少彦名命(すくなひこなのみこと=えびす様)、そして江戸っ子に慕われた平将門命(たいらのまさかどのみこと)です。武家からも庶民からも敬われる、まさに江戸を代表する神社でした。

将軍も見物した「天下祭」

江戸時代、神田明神は幕府から江戸総鎮守として手厚く遇されました。その祭礼である神田祭は、山王祭とともに「天下祭(てんかまつり)」と呼ばれ、将軍が上覧する格式高い祭りとして知られます。江戸三大祭の一つに数えられ、豪華な山車や神輿が江戸城内にまで練り込んだと伝えられます。幕末の動乱の時代にあっても、江戸の人々は変わらずこの社に集い、日々の平安を祈っていたことでしょう。

学問と信仰が隣り合う丘

神田明神の魅力は、その立地にもあります。すぐ近くには、幕府の最高学府であった昌平坂学問所(湯島聖堂)があり、神田・湯島・お茶の水の一帯は、いわば「学問と信仰の丘」でした。若き武士たちは、聖堂で朱子学を学び、明神に手を合わせる——幕末の江戸を担う知性と精神が、この狭い一角で育まれていたのです。あわせて訪ねると、幕末の江戸の空気がいっそう立体的に感じられます。(「幕府の最高学府・昌平坂学問所を歩く」もご覧ください。)

維新がもたらした転換——祭神・平将門をめぐって

神田明神には、幕末から明治維新への価値観の転換を象徴する、印象深い出来事があります。祭神の一柱である平将門は、かつて朝廷に反旗をひるがえした人物です。江戸時代には、権力に立ち向かった英雄として江戸っ子に愛されていました。ところが、天皇を中心とする明治新政府のもとでは、将門は「朝敵(ちょうてき)」——すなわち朝廷の敵とみなされ、明治のはじめには一時、神田明神の祭神から外されてしまいました(のちの時代に、あらためて本社の祭神へと戻されています)。

江戸で英雄だった人物が、維新を境に「朝敵」とされる——。この一件は、幕末から明治へと移りゆくなかで、人々の価値観や「正しさ」の基準そのものが大きく塗り替えられたことを、静かに物語っています。神社の祭神をめぐる小さな出来事の裏に、時代の大転換が映し出されているのです。

現地を歩いて感じたこと

御茶ノ水の街並みを抜けると、鮮やかな朱塗りの隨神門が視界に飛び込んできます。門をくぐれば、豪奢な社殿が構え、都会のただ中とは思えないにぎわいと荘厳さに包まれます。将軍から庶民まで、そして幕末の志士たちも見上げたであろうこの社に立つと、江戸という都市が信仰とともにあったことを、あらためて実感させられました。

アクセス(所在地)

神田明神(神田神社)は東京都千代田区外神田にあります。JR・地下鉄の御茶ノ水駅や秋葉原駅から徒歩圏内。近くの湯島聖堂(昌平坂学問所跡)とあわせて巡るのがおすすめです。

まとめ

神田明神は、江戸の総鎮守として将軍から庶民まで幅広く信仰を集め、幕末の江戸を見守った神社でした。幕府の最高学府・昌平坂学問所と隣り合う「学問と信仰の丘」の一角であり、祭神・平将門をめぐる維新後のエピソードには、時代の価値観の大転換が刻まれています。幕末の江戸を「信仰」の面から感じたい方に、ぜひ訪ねてほしい史跡です。各藩の歴史は全藩情報もあわせてどうぞ。

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