遠江久野藩/北条家1万石:北条氏重 下総関宿へ加増転封のため廃藩

遠江久野藩 北条家1万石 最後の藩主 北条氏重
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遠江久野藩の歩み

慶長三年(1598年)、「松下之綱」が死去し、後を子の「松下重綱」が継ぎました。重綱は「関ヶ原の戦い」においては徳川家康率いる東軍に与して大垣城の牽制に務め所領を安堵されました。ところが、久野城の石畳を幕府に許可なく修理したことを咎められて、常陸国に移封を命じられました。これにより久野藩は、一時的に廃藩となります。

しばらくして、下野国富田藩から「北条氏重」が一万石で入封し、再び久野藩を立藩します。氏重は駿河田中城番や二条城西惣門番などを努めた功績から、寛永十七年(1640年)九月二十八日、一万石を加増された上で下総国関宿藩に加増転封されました。これにより久野藩は完全に廃藩となりました。

廃藩のあと—一夜にして静岡藩領になった土地

まず場所です。久野城址の住所は静岡県袋井市鷲巣で、江戸期の集落は「久能」と書きました。

北条氏重が元和五年(1619年)に入って二十一年治め、寛永十七年(1640年)に下総関宿へ加増転封となって正保元年(1644年)に久野城は廃城となりました。

幕末直前のこの一帯は中泉代官所(天領)の支配下にありました。嘉永六年から安政五年にかけては、儒学者で幕臣の林伊太郎が中泉代官を務め、領民の救済に尽くしています。ただし久能の村ごとの領主までは確認できません。

そして慶応四年・明治元年(1868年)、この土地は一夜にして姿を変えます。徳川宗家の駿府移封にともなって遠江国の領地が再編され、幕府領も旗本領も消滅し、まとめて静岡藩領となったのです。幕末の袋井は、戦場になった土地ではなく、統治する主体が丸ごと入れ替わった土地でした。

宿場としての袋井には面白い成り立ちがあります。東海道の宿駅制度が定められてから十五年後の元和二年(1616年)、掛川と見付のあいだが四里ほども離れすぎていたため、あとから追加された宿場なのです。天保十四年(1843年)の調べでは町並み五町十五間、人口八百四十三人、家数百九十五軒。うち本陣三軒、旅籠五十軒でした。

「東海道どまん中」と呼ばれるのは、江戸から数えても京都から数えても二十七番目の宿場だからです。

久野城址は昭和五十四年に袋井市の史跡となりました。曲輪・堀切・土塁・横溝が残り、大手から本丸まで一周できる見学路が整備されています。大手門は掛川城の北門へ移築されたという伝承があります。

若き日の秀吉が仕えた主人・松下之綱

久野藩を開いた松下重綱の父・松下之綱(ゆきつな)は、遠江の頭陀寺城(いまの浜松市)を本拠とした今川家の家臣でした。この之綱こそ、少年時代の豊臣秀吉がはじめて武家奉公をした主人として知られる人物です。尾張を出た木下藤吉郎は、遠江で之綱に仕え、目をかけられたと伝えられます。秀吉はやがて松下家を去って織田信長のもとへ移りました。

天下人となった秀吉は、かつての主人を忘れませんでした。之綱を召し出して取り立て、天正十八年(1590)に遠江の久野一万六千石を与えています。小さな国人の家が大名になったのは、昔の奉公人が天下を取ったからでした。

松下家と北条家のその後

城の石垣を無断で直したことを咎められて常陸へ移された重綱は、その後、陸奥の二本松、三春へと移りますが、子の長綱の代、正保元年(1644)に改易されました。秀吉の最初の主人の家は、大名としては江戸の初めに姿を消したことになります。

そのあと久野に入った北条氏重は、もとは信濃の保科家の生まれで、相模の玉縄城主だった北条氏勝(小田原北条氏の一族)の養子となった人です。関宿、掛川と移りましたが、万治元年(1658)に跡継ぎのないまま亡くなり、この北条家も絶えました。戦国の北条一族の名を江戸時代に伝えたのは、河内の狭山藩の北条家だけになります。

大岡越前の祖父がいた城—遠江久野藩の松下家と北条家

加藤嘉明の娘婿・松下重綱

久野藩の最初の藩主・松下重綱は、秀吉が若いころ仕えた松下之綱の子で、伊予松山の加藤嘉明の娘を妻にしていました。慶長八年(1603年)、重綱は常陸小張へ移され、久野藩はいったん空きます。

北条氏重—家康の甥で、大岡忠相の祖父

のちに久野藩主となった北条氏重は、信濃の保科正直の四男で、母は家康の異父妹でした。玉縄の北条氏勝の養子となって北条家を継いでいます。氏勝は、小田原攻めのとき玉縄城に籠城したのち、家康の説得で降伏した人です。氏重の娘は大岡家に嫁ぎ、その孫が「大岡越前」として知られる大岡忠相だとされます。家格は譜代です。

袋井市に残る久野城

久野城は袋井市の文化財として整備されています。本丸からは北条家の家紋である三つ鱗の瓦が見つかり、城を壊したあと(破城)の跡も確認されています。近くの上嶽寺には氏重の墓があり、掛川城の北門は久野城から移されたものだという伝承もあります。

北条の名を背負った徳川の甥

小田原で滅んだはずの「北条」の名を、家康の甥が継ぎ、その血が大岡越前につながっていく。久野城の三つ鱗の瓦は、戦国の名門が徳川の世にどう姿を変えて生き残ったかを示す、小さいけれど雄弁な証拠だと思います。

北条氏重のもう一つの藩

北条氏重は、久野藩のほかに下野の富田藩も治めました。富田藩のページでは、氏重が保科家からの養子で、後北条氏の血を引く大名家は河内狭山藩北条家として明治まで続いたことを紹介しています。

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