村松藩/堀家3万石:堀直弘 藩主直賀は同盟に従い米沢へ逃れ、勤王派が直弘を立てて降伏した村松藩

村松藩 堀家3万石 最後の藩主 堀直弘
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村松藩の歩み

村松藩は、越後国蒲原郡(いまの新潟県五泉市村松)に置かれた三万石の藩です。藩主は堀家で、周りを大藩や天領に囲まれた小さな大名家でした。山あいの土地が多く新田を開いても石高は伸びにくかったものの、貞享四年(1687年)には実際の石高が四万石ほどあったとされます。城主格になったのは嘉永三年(1850年)です。

幕末の村松藩では尊王論が広がり、尊王攘夷と軍制の改革を求める藩士たちと、それに反対する保守派が対立しました。保守派が尊王派の七人を処刑した「村松七士事件」で、藩の中は二つに割れます。

そのまま迎えた戊辰戦争で、十一代藩主・堀直賀は奥羽越列藩同盟に加わりますが、慶応四年(1868年)八月四日に村松城が落ちると米沢藩へ逃れました。一方、新政府につくべきだとする近藤安五郎ら正義党はただちに新政府へ降伏し、所領は安堵されます。同じ年の十二月七日、直賀は隠居を命じられ、九代藩主・堀直央の末子で、まだ数えで八歳の堀直弘が家督を継ぎました。一つの藩が二つの立場に分かれたまま、村松藩は戊辰戦争を終えたことになります。

村松七士事件—藩を割った七人の処刑

処刑されたのは、稲垣覚之丞、岡村定之丞、下野勘平、山崎弥平、中村勝右衛門、佐々耕庵、泉仙介の七人です。稲垣は百五十石の側用人使番、岡村は二百五十石で側用人から監察に進んだ人、下野は二百石の物頭で、藩の中堅にあたる藩士が含まれていました。一方で、藩医の佐々耕庵は六人扶持、馬廻の山崎弥平は八人扶持、中村勝右衛門は七人扶持、泉仙介は三人扶持と、禄の少ない藩士も加わっています。年齢は三十八歳から五十二歳で、若者の暴走ではなく、働き盛りの藩士たちの運動でした。

泉仙介は元治元年(1864年)に京へ上り、長州で活動したといわれます。佐々耕庵も江戸や京都で勤王の運動をしていました。藩の外の動きを知る者たちが、藩内で老臣たちと対立したことになります。七人は「正義党」の同志とされ、処刑は会津藩の立ち会いのもとで行われたと伝わります。

事件の時期は、慶応二年(1866年)十一月とする資料と、処刑の日を慶応三年(1867年)五月十九日とする資料があります。いま住吉神社には「村松七士之碑」が建っています。

疑われながら戦った北越戦争

藩論が割れたままでも、村松藩は旧幕府側に立ちました。領地が会津藩領に接していたためです。奥羽越列藩同盟に加わった越後の諸藩のなかで、村松藩は新発田・村上・三根山・黒川とともに名を連ねました。

JR長岡駅前に立つ長岡城本丸跡の石碑
長岡駅前に立つ長岡城本丸跡の碑。村松藩はこの長岡城を助けるために兵を出しました(写真:Rebirth10、CC BY-SA 4.0)

慶応四年五月十四日、村松藩は長岡藩を助けるために出兵します。ところが長岡城が落ちたあとの加茂の軍議で、河井継之助から旧幕府方への忠誠を疑われました。軍議に出ていた田中勘解由は、その場で自決を図ったと伝わります。のちの赤坂の戦いでは、継之助に「村松藩では隊長以上の戦死者がいない」と言われ、自ら死に向かうような戦い方を選んだ者も出たといいます。

ガトリング砲のかたわらに立ち長岡藩兵を見渡す河井継之助(イラスト)
村松藩の忠誠を疑った長岡藩の河井継之助(イメージイラスト)。写真ではありません

八月四日、村松城が落ちて城下は焼けました。会津・桑名の藩士が火を放って退いたとする説と、藩みずから火をかけたとする説があります。藩主は米沢藩へ逃れ、九月十八日に新政府へ謝罪を申し入れ、十月十九日に謹慎を命じられました。新政府軍の先鋒を務めた越後高田藩とは、まったく逆の側に立った藩でした。

炎上する村松城下を背に、雨の山道を米沢へ落ちのびる村松藩士たち(イラスト)
慶応4年8月4日、焼ける城下をあとに米沢へ向かう村松藩の人びと(イメージイラスト)。写真ではありません

上野大仏を守った殿様—村松藩の堀家

堀直政から三つの家へ

村松藩の堀家の祖・堀直政は、尾張国中島郡奥田庄の奥田直純の子で、いとこの堀秀政の家老となって堀の姓を与えられた人です。直政の子孫は、村松・椎谷・須坂の三家として幕末まで続きました。村松藩祖・堀直時は村上藩主・堀直寄の次男で、寛永十六年(1639年)に三万石を分けられ、はじめは安田に陣屋を置きました。家格は外様です。

上野大仏の鋳造し直し

上野の大仏は、寛永八年(1631年)に先祖の堀直寄が建てたものです。九代藩主・堀直央は天保十四年(1843年)に大仏を鋳造し直し、安政二年(1855年)の地震で頭が落ちたときにも修理費を寄進しました。いま大仏は顔だけが残り、「合格大仏」と呼ばれています。上野の大仏の顔を見上げる受験生のほとんどは、それを越後の小藩の殿様が守ってきたことを知りません。

直央は織物(村松縞)、紙、筆、茶、村松焼などの産業も奨励しました。一方、文化十一年(1814年)には家老の厳しい取り立てに反発した全藩一揆も起きています。

二人の殿様が続けて亡くなる

直央は安政四年(1857年)に次男の直休へ家を譲りました。ところが万延元年(1860年)から翌年にかけて、直休と直央が相次いで亡くなり、改革は途中で止まってしまいます。直休の跡は、六代藩主・堀直教の孫で奥田教明の長男にあたる直賀が、万延元年十一月一日に末期養子として継ぎました。のちに藩主となる直弘は万延二年(1861年)の生まれで、生まれてまもなく父を亡くしています。

藩知事から奥田家へ

直弘は明治二年(1869年)六月二十日、版籍奉還によって村松藩知事となり、明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で職を解かれます。村松藩は村松県となり、同年十一月に新潟県へ編入されました。

村松の堀家は、本姓を奥田といいます。明治十年(1877年)二月、同じ堀直政の流れをくむ須坂藩の堀直明、椎谷藩の堀之美とそろって奥田姓への改称を願い出て、認められました。明治十七年(1884年)七月には直弘の子・奥田直暢が村松奥田家の当主として、直賀の子・奥田直紹が椎谷奥田家の当主として、それぞれ子爵を授けられています。藩論を二つに割って争った両派の旗頭の家が、どちらも華族として明治を生きたことになります。直弘は大正八年(1919年)まで生き、直賀の墓は谷中霊園にあります。

いまの村松に残るもの

村松城跡は文化財の指定を受けていませんが、城跡公園として整えられ、五泉市の郷土資料館が置かれています。嘉永の大改修のあとに作られた「村松城城郭図及び南御殿の図」や、宝暦年間の「村松城下図」は五泉市の文化財です。明治三十九年に造られた村松公園は、日本さくら名所百選に選ばれています。

場所・アクセス・地図

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