横手城の戦いとは?同盟に調印した父と城を守った息子—庄内藩が横手城を落とした戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく

慶応4年(1868)8月11日。秋田の横手城に、庄内藩の大軍が迫っていました。新政府軍の主力はすでに横手から退き、城に残っていたのは、城代の戸村大学とわずかな兵だけでした。庄内藩は降伏をすすめる使者を送りましたが、戸村は返事をしません。夕方、庄内藩は城に攻めかかり、横手城は炎に包まれました。

実は戸村大学の父・戸村十太夫は、久保田藩の代表として奥羽越列藩同盟に調印した家老でした。その父が「独断で調印した」として謹慎させられているさなか、息子は同盟軍を相手に城を守ることになったのです。この記事では、秋田戦争の中でもとりわけ胸を打つ「横手城の戦い」を、進軍図とイラストで解説します。

目次

横手城の戦いとは?ひとことで言うと

秋田戦争で南から攻めこんだ庄内藩の大軍が、城代の戸村大学がわずかな兵で守る横手城を一日で落とした戦いです。戸村は降伏をこばんで最後まで戦い、城に火がかかるなかを斬り抜けて脱出しました。

日時 慶応4年8月11日(1868年9月26日)。午後4時ごろ〜午後8時ごろ
場所 出羽国平鹿郡の横手城(現在の秋田県横手市城山町)
庄内藩 一番大隊(隊長・松平甚三郎)と二番大隊(隊長・酒井吉之丞)。仙台藩の兵も加わった
久保田藩 横手城代・戸村大学(義得)とわずかな城兵
兵力(おおよそ) 庄内藩の二つの大隊(あわせて約1,000人)と仙台藩兵 対 横手城のわずかな兵
結果 庄内藩の勝利。横手城は炎上して落ち、戸村大学は包囲を破って北へ逃れた

なぜ横手城で戦いが起きたのか

同盟を抜けた久保田藩と、調印した家老

慶応4年5月、仙台藩の呼びかけで白石会議が開かれ、奥羽越列藩同盟が結ばれました。このとき久保田藩(佐竹家)の代表として出席し、盟約に調印したのが、横手城代を代々つとめる戸村家の当主・戸村十太夫(義效)です。

ところが7月4日、久保田藩は同盟を抜けて新政府につきました。十太夫の調印は「独断による越権行為」とされ、十太夫は久保田城で謹慎を命じられます(約90年後の昭和33年、調印は藩主・佐竹義堯の指示だったことを示す文書が見つかり、十太夫の名誉は回復されました)。そのあとの横手城を預かったのが、息子の戸村大学(義得)でした。

白石城で盟約に名を書き入れる家老と見守る各藩の家老たち
白石会議で、久保田藩の代表として盟約に調印した戸村十太夫(イメージ)

南から迫る庄内軍

同盟を抜けた久保田藩に怒った庄内藩は、7月、二手に分かれて秋田領に攻めこみました(秋田戦争とは)。内陸を進んだ一番大隊・二番大隊は、新庄城を落とし(新庄の戦い)、8月1日に院内、5日に湯沢を破って北上します。横手は、その行く手にある雄勝・平鹿地方の中心の城でした。

庄内軍の勢いの前に、横手にいた新政府軍の主力は横手を捨てて北へ退きます。城に残ったのは、戸村大学とわずかな兵だけでした。

横手城の櫓から迫る大軍を見つめる城代と少数の兵
新政府軍の主力が去った横手城。城代の戸村大学は、わずかな兵とともに北上してくる庄内軍を待ち受けた(イメージ)

両軍の顔ぶれと兵力

庄内藩と同盟軍

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
庄内藩 酒井家
17万石
一番大隊(隊長・松平甚三郎)は羽州街道を北上して大手へ、二番大隊(隊長・酒井吉之丞)は浅舞道から搦手(裏手)へ回った。秋田に入った一番・二番大隊はあわせて約1,000人
仙台藩 伊達家
62万石
瀬上隊が庄内藩とともに城に攻め入った

久保田藩

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
久保田藩 佐竹家
20万石
横手城代・戸村大学がわずかな兵で城を守った。新政府軍の主力はすでに北へ退いていた

兵力と条件を比べる

庄内藩と同盟軍 横手城
兵力 二つの大隊と仙台藩兵。数で大きく上回った わずかな城兵。援軍はなかった
武器 スネルから買い入れた新式の銃をそろえ、東北でもっとも装備が充実していた 刀・槍で斬りこむ兵もいた
ねらい 横手を押さえ、秋田領の奥へ進む足場にする 勝ち目がなくとも、城を明け渡さずに戦う

戦いの流れ

横手城の戦いの進軍図
横手城の戦いの進軍図。庄内藩の一番大隊は羽州街道から大手へ、二番大隊は浅舞道から搦手へ。戸村大学は北の金沢へ逃れた(イメージ)

8月11日朝:十文字から横手へ

8月11日、庄内藩の一番大隊は十文字を出て羽州街道を北上し、横手城の大手(正面)に向かいました。二番大隊は浅舞道を進み、城の搦手(裏手)に回ります。途中で久保田藩の抵抗はなく、庄内軍は横手城の西南約4キロの赤坂に陣を敷きました。

降伏のすすめを、戸村は黙殺した

二番大隊は斥候の知らせで、新政府軍の主力がすでに逃げ去り、戸村大学がわずかな兵で城にこもっていることを知っていました。一番大隊の松平甚三郎と二番大隊の酒井吉之丞は相談し、城に使者を送って降伏をすすめます。しかし戸村は返事をせず、使者をそのまま城にとどめました。

降伏をすすめる封書を差し出す使者と、受け取らず前を見つめる城代
庄内藩の降伏のすすめに、戸村大学は答えなかった(イメージ)

午後4時:総攻撃

返事を待っても答えはありません。午後4時、一番大隊が攻撃を始め、二番大隊も大手門をめざして一斉に攻めかかりました。午後5時ごろ、二番大隊の小隊が追手口から城内に討ち入り、裏手からも一部が突入します。横手の兵は刀や槍で反撃し、庄内軍が鉄砲で応じて、城の中は入り乱れた戦いになりました。仙台藩の瀬上隊なども加わります。

夕焼けの中、山城の大手門へ駆け上がる庄内藩兵
午後4時、庄内藩は横手城の大手門へ攻めかかった(イメージ)

城門が開き、横手兵が斬りこむ

庄内藩の別の隊が城門に向けて撃ちかけると、突然、城門が開きました。20数人の横手兵が刀や槍を手に飛び出し、庄内軍の囲みを力ずくで破ろうとしたのです。激しい白兵戦(刀や槍での斬り合い)になり、その混乱にまぎれて、戸村大学と残りの兵は庄内・仙台の囲みを突破して逃れました。

午後8時:炎上する横手城

横手城は燃え上がり、午後8時ごろには戦いは収まりました。一番大隊は大手の大橋を渡って本丸に入り、抵抗もなくこれを押さえます。戸村大学は横手の北約6キロの金沢を経て、高梨村へと逃れました。

炎上する横手城を見上げる庄内藩兵と、闇に紛れて落ちていく城代
炎上する横手城。戸村大学は囲みを破り、闇にまぎれて北へ逃れた(イメージ)

両軍の死傷者

戦死 負傷
久保田藩(横手城) 21人 8人
庄内藩・同盟軍 7人 約10人

※数字はWikipedia「横手の戦い」による(郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』を出典とする)。

戦いのあと

敵の戦死者をとむらった庄内藩

横手城を押さえた庄内藩の一番大隊は、横手兵21人の亡きがらを集め、城下の龍昌院に葬りました。近くの寺から14人の僧を呼び、礼金を払って、ていねいにお経をあげたといいます。

寺の境内で新しい墓標の前に読経する僧と手を合わせる庄内藩士
庄内藩は横手兵21人の亡きがらを龍昌院に葬り、僧を呼んで手厚く弔った(イメージ)

角間川へ

翌12日、二番大隊は横手の後始末を一番大隊に任せ、北の角間川に集まった久保田藩兵を討つために出発します。13日の角間川の戦いで、庄内軍は大勝を収めました。こうして開戦から1か月ほどで、久保田藩領の雄勝・平鹿の二郡と仙北郡の南半分が同盟軍の手に落ちます。

120年後の握手

昭和63年(1988)9月26日、横手市の龍昌院で「横手戊辰役百二十年・戦死者慰霊祭」が開かれました。この席には、庄内藩の松平甚三郎と酒井吉之丞の子孫、そして戸村大学の子孫が出席し、120年ぶりに敵味方の将の子孫が握手を交わしています。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

横手城の戦いは、勝ち負けだけを見れば、大軍が小さな城を一日で落としたというだけの戦いです。けれども、その中身を知ると、これほど胸を打つ戦いはなかなかありません。

同盟に調印した父は「勝手に調印した」と責められて謹慎し、息子はその同盟の軍を相手に城を守る。新政府軍の主力が去ったあとの城に残り、降伏のすすめにも答えず、最後は刀と槍で囲みを破って脱出する。戸村父子は、藩の方針が大きく揺れ動くなかで、それぞれの立場で責任を引き受けたのだと思います。父の調印が藩主の指示だったとわかったのが90年後だったというのも、やりきれない話です。

そして、勝った庄内藩が敵の戦死者を集めて手厚く葬ったこと、120年後に両軍の子孫が握手を交わしたこと。戊辰戦争の東北には、恨みだけでなく、こうした敬意の物語も残っています。

現地を歩く ― 横手城の戦いの史跡

横手城跡(横手公園)
横手城跡(横手公園)。いまの模擬天守は昭和40年に展望台として建てられたもので、戊辰戦争のころの横手城に天守はなかった
  • 横手城跡(横手公園)(横手市城山町):戸村大学が守った横手城の跡。いまは公園になり、昭和40年(1965)に建てられた模擬天守(展望台)があります(横手城)
  • 龍昌院(横手市城西町):庄内藩が横手兵の戦死者を葬った寺。昭和63年の慰霊祭で、両軍の子孫が握手を交わしました
  • 赤坂(横手市):庄内軍が陣を敷いた、横手城の西南の地

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参考にした資料

  • Wikipedia「横手の戦い」「戸村義效」「秋田戦争」(郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』、『横手郷土史資料』などを出典とする)

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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