横手城:上杉景勝(関ヶ原の戦い)に与したため領地没収となった小野寺義道の横手城【日本の歴史 お城特集】

横手城は戦国時代「小野寺義道」の城でした。
独立大名としてしのぎを削っていたが関ヶ原の戦いが勃発すると西軍(石田三成)の上杉景勝に与したため、戦い後改易されました。

改易後は最上氏の所領となり城代が置かれたが、佐竹氏が常陸国が移封してくると佐竹氏の支配する領地となります。本来ならば一国一城令により廃城となるところを秋田藩祖「佐竹義宣」が徳川幕府に城の重要性を必死に説き廃城を免れることになります。

江戸期を通じて佐竹氏の城代戸村氏が治めてきたが幕末になると新政府軍と旧幕府軍との間で戦が勃発し、秋田藩は新政府軍に就きます。これにより仙台藩・庄内藩などからの攻撃を受け、ついには落城しました。

現在は戊辰戦争で犠牲になった藩士を追悼するため秋田神社が建立されています。
なお、現在の横手城天守は模擬天守です。

目次

慶応四年八月十一日の夕暮れに落ちた本丸と二の丸

横手市の公式の説明では、慶応四年の戊辰の役で横手城は砲火を浴びて炎上し、明治元年八月十一日の夕暮れについに本丸も二の丸も落ち、城士二十一名が壮烈な討死をとげたと記されています。秋田県公文書館の資料によりますと、同じ年の四月に東北の諸藩は仙台藩に呼応して結束しましたが、七月に奥羽鎮撫総督が軍勢を率いて秋田へ入ったことで、秋田の諸藩は新政府への恭順を迫られて奥羽越列藩同盟を脱退し、開戦を強いられました。戦いは七月から九月まで続き、横手城の落城はそのただ中の出来事にあたります。

石垣を積まず韮を植えた土の城

横手市の説明によりますと、横手城は石畳を用いずに土居を削って崖とし、土くずれを防ぐ土止めを施したうえで、敵が這い登れないように韮を植えたつくりでした。大きな石垣も天守も持たない土塁と櫓の城でしたから、そのぶん火には弱く、戊辰の戦火で大部分を焼いてしまいます。落城のあと、本丸跡には焼け残った横手城の遺構を使って秋田神社が建てられました。焼けた城の部材が社の姿になって残ったという点で、ここは戊辰の記憶をそのまま抱え込んだ場所だといえます。

二の丸跡に建つ昭和四十年の展望台

いま横手公園を訪ねると三層の建物が目に入りますが、これは昭和四十年に二の丸跡へ建てられた天守閣様式の展望台で、内部は郷土資料館になっています。横手城の遺構を復元したものではありません。開館は四月一日から十一月三十日までと二月の雪まつりの期間に限られ、十二月一日から三月三十一日までは冬季休館です。城址の南東には本多上野介正純の墓碑も残されています。

佐竹家の支城と戸村氏

秋田藩の支城 横手城は、戦国時代に小野寺氏の居城でしたが、関ヶ原ののち小野寺氏が改易されると、常陸から秋田へ移された佐竹家の領地となりました。佐竹家は横手城を支城とし、家臣を城代として置いて、秋田藩の南の守りとします。

戸村家の城代 江戸時代の中ごろからは、佐竹家の重臣・戸村家が横手城代を代々務めました。「戸村十太夫」はこの家の代々の通称で、特定の一人の名ではありません。幕末の当主は戸村義效で、戊辰戦争のはじめに白石の会議で奥羽越列藩同盟の盟約へ秋田藩の代表として署名した人物です。秋田藩が同盟を離れると、横手城は同盟軍の攻撃を受けて落城しました。

署名した父は城にいなかった

横手城の落城を語るときに取り違えやすいのが、城を守った人の名です。

盟約に署名した戸村義效は、秋田藩が同盟を離れて新政府側につくと、その署名を咎められて久保田城で永蟄居となりました。つまり落城のとき、義效は横手にいません。

城を預かったのは、その子の戸村義得(通称・大学)です。横手市の資料によると、義得が父の跡を受けて城代となったのは落城のわずか八日前。年は十九歳でした。

同盟に署名した父と、その同盟軍を相手に城を守る子。横手城の幕末は、同じ家のなかで立場がまっぷたつに割れたところから始まっています。

二百八十名で籠り、裏門から出た

庄内藩側に残る記録によりますと、慶応四年八月十一日の早朝に進撃がはじまり、午後二時ごろには各隊が城へ迫りました。庄内藩の軍は八月二日に院内、八月五日に湯沢を落としており、横手はその延長線上にあたります。

籠城した兵は二百八十名と伝えられます。城を囲んだ側との差は大きく、義得は裏門から脱出して城を出ました。横手市の公式の説明では、この日の夕暮れに本丸も二の丸も落ち、城士二十一名が討死したとされています。

十九歳の城代が八日だけ城を預かり、二百八十名で籠り、裏門から出る。横手城の落城は、そういう八日間の話です。

七曲坂という上り

横手公園へ上がる道のうち、本丸へ向かう七曲坂は高低差がおよそ四十七メートルあります。石垣を積まず、土居を削って崖とし、韮を植えて這い登れないようにした城ですから、守りの要はこの斜面そのものでした。

横手城跡は横手市の史跡に指定されています。明治三十五年に公園として整備され、昭和四十年に二の丸跡へ展望台が建てられました。

横手城の成り立ちと、城跡に眠るもの

朝倉城と呼ばれた城

横手城は、古くは朝倉城とも呼ばれました。天文二十三年(1554年)に小野寺景道が築いたと伝えられます。石垣をほとんど使わず、土居と削った崖で守る城で、斜面にはニラを植えて崩れを防いだことから「韮城」とも呼ばれました。

本多正純の配流

江戸時代の初め、横手城には幕府の重臣だった本多正純が流されています。宇都宮城の「釣天井事件」の噂で知られる改易ののち、正純は佐竹家に預けられ、寛永十四年(1637年)に横手で亡くなりました。

岡崎城を手本にした模擬天守

いま二の丸跡に建つ天守は、昭和四十年(1965年)に岡崎城を手本にして建てられた鉄筋コンクリートの模擬天守です。東北で最も古い模擬天守とされます。横手城にはもともと天守はありませんでした。城跡には牛沼や蓬莱橋の土塁が、往時の名残としてとどめられています。

場所・アクセス・地図

秋田県横手市城山町

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