| 矢田賢之助 | |||
| 職名 | 勘定方(靖兵隊では士官取締) | ||
| 出身 | 紀伊国 | ||
| 終焉場所 | 下野 今市 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
元治元年(1864)に入隊した、紀州出身の隊士です。
慶応4年、永倉新八・原田左之助らと新選組を離れて靖兵隊に加わり、士官取締を務めました。
下野の今市の戦いで顔に弾を受けて戦死しています。

紀州から来た隊士
矢田賢之助は紀伊国(紀州)の出身で、元治元年(1864)に新選組に入隊しました。隊では勘定方として、隊の金の出し入れにも関わっています。和歌山市立博物館には、矢田が書いた手紙3通が残されており、特別展「幕末の紀州藩」で公開されました。
永倉・原田と「死生をおなじゅうする」
矢田は、永倉新八や原田左之助と「死生をおなじゅうする」、つまり生きるも死ぬも一緒だと誓い合った仲だったと伝わります。慶応4年(1868)3月、二人が近藤勇と袂を分かって靖兵隊をつくると、矢田もこれに加わり、士官取締という幹部の役を務めました(靖兵隊とは)。
今市の戦いで戦死
靖兵隊は4月に江戸を出て、大鳥圭介の旧幕府軍とともに宇都宮・壬生で戦い、日光街道の今市まで退きます。数日休んだあと、永倉・矢田ら60人あまりが今市の方面へ出陣しました。この戦いで、矢田は顔に弾を受けて戦死します。戦いの全体は「今市の戦いとは」をご覧ください。靖兵隊はこのとき、戦死およそ20人、負傷およそ30人という大きな損害を出しました。
原田左之助はすでに江戸へ戻ったあとで、5月に上野戦争の傷で亡くなります。「死生をおなじゅうする」と誓った三人のうち、戊辰戦争を生き延びたのは永倉だけでした。
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