| 前野五郎 | |||
| 職名 | 平隊士(靖兵隊では歩兵取締) | ||
| 出身 | 阿波国(徳島藩士の家) | ||
| 終焉場所 | 択捉島 | ||
| 終焉方法 | 事故死 | ||
慶応2年冬ごろ、京都で入隊しました。
慶応4年、永倉新八らと新選組を離れて靖兵隊に加わり、永倉が去ったあとの隊を率いました。
維新後は北海道で暮らし、明治25年、択捉島で亡くなっています。

徳島藩上士の家に生まれる
前野五郎は、弘化2年(1845)、阿波徳島藩の上士・前野自敏(健太郎)の次男として生まれました。慶応2年(1866)の冬ごろ、京都で新選組に入隊し、見廻組並御雇の格を受けた平隊士となります。
慶応3年9月には、土方歳三・井上源三郎に従って江戸へ下り、新しく集めた隊士を率いて11月に京都へ戻りました。12月7日の天満屋事件では、斎藤一らとともに紀州藩士・三浦休太郎の警護についています。
刀の目利きと大酒
剣術の腕は人並みだったといわれますが、刀剣の鑑定と馬術にすぐれ、刀の目利きは隊でいちばんだったと記録されています。大の酒好きでもあり、慶応4年2月18日には、林信太郎らと深川の遊郭で3日間飲み続けたという話も残っています。
靖兵隊を率いて会津へ
慶応4年(1868)3月11日、前野は永倉新八らに従って新選組を離れ、靖兵隊に加わりました。靖兵隊では伍長、のちに歩兵取締を務めます(靖兵隊とは)。閏4月、隊長の芳賀宜道と永倉が会津へ援軍を求めに向かうと、林信太郎とともにあとの隊を任されました。
8月には下野の高原宿で隊を託されて会津へ向かいますが、8月30日の大内峠の戦いで敗れます。前野は知り合いの薩摩藩士・加納鷲雄を頼って降伏し、薩摩藩の付属となりました。加納はもと新選組の隊士で、御陵衛士として新選組を離れた人物です。
北海道・千島での後半生
維新後の明治2年(1869)9月、前野は開拓使の付属となって北海道へ渡り、開拓判官・岡本監輔のもとで樺太にも赴きました。のちに札幌で商いを営み、明治24年には千島の漁業開発の組合を立ち上げています。
明治25年(1892)4月19日、択捉島で狩りをしていたとき、橋から落ちたはずみで銃が暴発し、亡くなりました。48歳でした。永倉新八の遺稿「名前覚」には「殺害された」と書かれていますが、その事情はわかっていません。


