桜井藩の歩み
明治元年(1868年)七月十三日、徳川宗家の駿河・遠江への転封に伴い、駿河国小島藩から一万石で「松平信敏」が上総国に替地として移転しました。当初は上総国周准郡南子安村金ヶ崎(君津市南子安)に子安陣屋を置いて藩庁とし、金ヶ崎藩と称しました。しかし翌年三月に藩庁を望陀郡桜井村に移し、桜井藩と改名しました。
藩庁の移転は南子安村の交通が不便であったためとされています。桜井藩の桜井陣屋は、かつての「貝淵藩」跡をそのまま利用したものです。貝淵藩(請西藩)が朝敵として改易されたことから「貝淵藩」の名称を避け、「桜井藩」と称しました。
明治四年(1871年)の廃藩置県により、「桜井藩」は廃藩となって桜井県となり、同年十一月には合併によって木更津県が成立して県庁が貝淵陣屋(桜井陣屋)に設置されました。後に同県は印旛県と合併して千葉県となりました。
花房藩/西尾家三万五千石:西尾忠篤 徳川宗家の駿河移封の替地として横須賀藩から転封した西尾氏
菊間藩/水野家五万石:水野忠敬 沼津藩からの移封により立藩
長尾藩/本多家四万石:本多正訥 徳川家の駿河転封に伴い国替えにて立藩
鶴舞藩/井上家六万石:井上正直 徳川家の駿河・遠江入封に伴い浜松藩から移封の上で立藩
松尾藩(柴山藩)/太田家五万undefined千石:太田資美 西洋稜堡式要塞を築城中に廃藩置県となった松尾藩
小久保藩/田沼家一万一千二百七十石:田沼意尊 徳川宗家の駿河・遠江移封に伴う替地として立藩
駿河から来た一万石が、脱藩した藩の跡地に入りました
はじめに、この藩の名前について整理しておきます。桜井藩は「貝淵藩」と並べて書かれることがありますが、これは正確ではありません。貝淵藩は林家一万石の藩で、文政八年(1825年)に立った別の藩です。桜井藩の松平(滝脇)家とは、血のつながりも制度上の連続もありません。石高も同じで、一万八千石という数字は林家が天保十年(1839年)に加増を受けたときの数字であって、桜井藩のものではありません。桜井藩は一万石です。
では、なぜ二つの藩が重なって見えてしまうのか。桜井藩が、貝淵藩の「跡地」に入った藩だからです。
駿河小島から上総へ
慶応四年(1868年)、徳川宗家が駿河へ移されると、駿河・遠江に領地を持っていた大名は代地を与えられて各地へ動きました。駿河小島藩の松平(滝脇)家一万石も、この年の七月十三日に上総へ移されています。
藩主は松平信敏。信濃高遠藩主内藤頼寧の九男に生まれ、小島藩主松平信書の養嗣子となり、元治元年(1864年)に養父の死によって十四歳で家督を継いだ人です。
上総に着いた信敏は、まず周准郡南子安村の金ヶ崎に仮の陣屋を構えました。この時期の呼び名は「金ヶ崎藩」です。望陀郡桜井村に移って「桜井藩」を名乗るのは明治二年(1869年)三月のことですから、この藩が桜井藩と呼ばれた期間は、実質二年半ほどしかありません。
林家が去ったあとの土地
その桜井村・貝渕村の一帯は、直前まで林家の土地でした。林家は文政八年に貝淵一万石で立藩し、天保五年に三千石、天保十年にさらに五千石を加増されて一万八千石まで伸びますが、天保十二年に若年寄を罷免されて八千石を削られ、一万石に戻ります。嘉永三年(1850年)十一月二十三日、林忠旭が陣屋を請西村の間舟台へ移したことで、藩名も請西藩に変わりました。
そして慶応四年、最後の藩主林忠崇は自ら脱藩して奥羽を転戦し、請西藩は改易されます。主のいなくなった旧請西藩領はいったん飯野藩の預かりとなり、同年七月二十一日に桜井藩へ移管されました。
木更津市は、のちの木更津県庁について「庁舎は、貝渕にあった旧桜井藩主滝脇信敏の屋敷があてられ」と解説しています。林家が使っていた貝淵の旧陣屋が、そのまま桜井藩の藩庁・藩主屋敷になっていたわけです。
幕府に最後まで刃を向けて藩そのものを捨てた家の跡へ、徳川家に従って駿河を出てきた家が入る。同じ木更津のうちで、まったく逆の選択をした二つの家が入れ替わったことになります。桜井藩という藩名の短さも、その事情を映しています。
遺構が残っているのは、上総ではなく駿河のほうです
桜井の陣屋も貝渕の旧陣屋も、いまは遺構が残りません。貝渕には案内板が立つだけで、周囲は住宅地になっています。木更津市は昭和四十一年(1966年)四月二十二日、この一帯を市指定史跡「貝渕木更津県史蹟」としています(木更津市貝渕三丁目)。
いっぽう、信敏の家が百六十四年を過ごした駿河側は、はっきり残っています。小島陣屋は宝永元年(1704年)に松平信治が庵原郡小島に構えたもので、安倍・有度・庵原の三十余カ村を支配しました。石垣を多用した三段の郭が特徴で、大手の石垣は高さ四メートルに達します。平成十八年(2006年)七月二十八日に国史跡「小島陣屋跡」に指定され、令和六年(2024年)十一月には移築復原された御殿書院の公開も始まりました。
一万石の陣屋大名の屋敷が国の史跡として整備されている例は、そう多くありません。この家の姿を見たいなら、上総の貝渕よりも静岡市清水区の小島を歩いたほうが、たしかなものに出会えるはずです。
滝脇松平という家
信敏の家は、十八松平などと総称される三河以来の松平一族の分家です。始祖は松平乗清。松平親忠の子で、三河国加茂郡滝脇(現在の愛知県豊田市滝脇町)を領したことから滝脇松平と呼ばれます。乗清は弘治二年(1556年)三月二十五日に戦死しています。
この乗清の兄が松平乗元で、乗元の系統が大給(おぎゅう)松平家です。大給松平家は明和元年(1764年)に三河の西尾藩六万石へ入り、そのまま幕末を迎えました。同じ兄弟から分かれた家の一方が六万石の城主で、一方が一万石の陣屋大名。しかも慶応四年には、その一万石のほうが駿河から上総まで動かされています。松平の一族といっても置かれた立場はまるで違っていた、ということが分かる並びです。
その後
明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で桜井藩は桜井県となり、同年十一月十三日、ほかの県とあわせて木更津県に統合されました。県庁は望陀郡貝淵村、初代県権令は柴原和です。木更津県は明治六年(1873年)六月十五日に千葉県へ統合され、二年ほどで姿を消しました。
信敏は明治四年に松平から滝脇へ改姓し、明治十七年(1884年)七月八日に子爵となっています。没したのは明治二十年(1887年)八月十日、三十七歳でした。



