斗南藩の人々はなぜ地元の知恵で暮らせなかったのか—三戸・下北の人々は冬を越してきたのに、という筆者の疑問

雪深い南部の寒村で、地元の農民の家族が会津から移ってきた家族に温かい椀を手渡す場面のイラスト

戊辰戦争に敗れた会津藩は、明治3年(1870)、下北・三戸・二戸の地に「斗南藩」として移されました。およそ1万7千人が北の地へ渡り、そして多くの人が飢えと寒さに苦しみ、数年のうちに散り散りになっていきます。

この話を読むたびに、わたしにはひとつ引っかかることがあります。「土地がやせていた」「寒さが厳しかった」とよく説明されるけれど、それは昔からそこに住んでいた人々も同じだったはずではないか。三戸にも一戸にも二戸にも、戦国のころから農民がいて、何代にもわたって寒い冬を越してきた。それならなぜ、会津の人々は地元の人たちの知恵を借りて暮らしていけなかったのだろうか—。

この記事は、その疑問をたどってみた筆者のメモです。調べてわかったことと、わたしの推測は分けて書きます。斗南藩そのものの成り立ちは斗南藩のページにまとめています。

目次

まず、斗南藩とはどんな藩だったのか

斗南藩 松平家3万石 最後の藩主 松平容大
斗南藩の藩主・松平容大(イメージ)
成立 明治2年(1869)11月に再興が許され、明治3年に「斗南藩」と称した
藩主 松平容大(容保の子。当時は数え2〜3歳)
領地 北郡35か村・三戸郡26か村・二戸郡9か村(表向き3万石)
実際の収穫 7千石余りとする説がある(星亮一『斗南藩』ほか)
移住者 約2,800戸・1万7千人余り(明治3年4月〜10月)
終わり 明治4年7月の廃藩置県で斗南県、同年9月に弘前県へ合併

藩としての時間は、移住からわずか1年あまりでした。

疑問1:地元の人々は、本当にうまく暮らしていたのか

最初に確かめたかったのは、「地元の人々は冬を越してきた」という前提そのものです。調べてみると、答えは「越してきた。ただし、何度も命を落としながら」でした。

南部地方は夏に「やませ」と呼ばれる冷たい東風が吹き、冷害が多い土地です。津軽にくらべて田んぼが少なく、畑が中心でした。農林水産省の郷土料理の紹介でも、南部は米づくりに向かず、飢饉と背中合わせの時代が長く続いたため、小麦・そば・粟・稗を食べる「粉食・雑穀」の文化が根づいたと説明されています。

飢饉の記録は凄まじいものです。八戸市の施設「はっち」の紹介によれば、八戸藩は天明の飢饉で人口の約半数にあたる死者・行方不明者を出しました。盛岡藩でも6万人を超える死者が記録されています。さらに天保5年(1834)には、八戸藩が農民の一日の食事を稗三合と定めて残りを買い上げる政策をとり、「稗三合一揆」が起きています。

つまり地元の人々も、決して「うまく暮らしていた」わけではありませんでした。米に頼らず、雑穀と馬と海と山で、ぎりぎりのところで命をつないでいたのです。

疑問2:その「知恵」は、すぐに身につくものだったのか

では、その知恵を会津の人々が学ぶことはできなかったのでしょうか。ここからは、わたしの推測が入ります。

南部の暮らしの知恵とは、ひとことで言えば「米がとれない前提で、一年をどう食いつなぐか」という技術だったと思います。どの畑に何をいつ蒔くか、凶作の年に何を蓄えておくか、山や海のどこで何がとれるか。盛岡藩には9つの藩営の牧場があり、馬の産地としても知られていました。下北ではヒバ材が江戸へ出荷され、八戸の海辺ではイワシ漁や塩づくりが営まれていました。暮らしは、田んぼ以外のいくつもの柱で支えられていたのです。

こうした知恵は、土地と家と村の中で、何世代もかけて受け継がれてきたものです。会津の人々の多くは、家禄として米を受け取って暮らしてきた武士とその家族でした。畑を耕した経験も、牧で馬を育てた経験もほとんどない人々が、来年の食べものを一年目から自分たちで確保するのは、知恵を教わったとしても簡単ではなかったでしょう。

疑問3:地元は、知恵を貸さなかったのか

調べていて意外だったのは、地元の人々がかなり手を差し伸べていたことです。

  • 三戸:三戸町に残る代官所の記録『萬日記』によると、明治3年4月20日に会津の人々が到着し、宿のない人を一軒あたり5〜10人ずつ民家に割り当てました。その後、食べるものがなく亡くなる人が多いのを憂えた町の人々が、お金を集めて救貧所を建てています。
  • 田名部:むつ市の資料では、住民が軒先に提灯を掲げて一行を迎えたと伝えられています。
  • 三本木:盛岡藩の新渡戸家が稲生川を引いて開いた三本木原では、新渡戸家が会津の人々の一部を受け入れ、開拓地を割り当てたとされます。

一方で、宿泊に難色を示す旅籠も多かったと、むつ市の資料は正直に書いています。藩士たちは農家の手間仕事を手伝って日銭を得たり、残飯をあさったりして暮らしたともいわれます。歓迎だけでも拒絶だけでもない、ふつうの人間どうしの関わりがあったのだと思います。

では、何がいちばん足りなかったのか

ここまで調べて、わたしなりに見えてきたのは、問題は「知恵を借りなかったこと」よりも、知恵を借りても間に合わない条件が重なっていたことではないか、ということです。

人数が多すぎた

青森県の資料によると、田名部にはおよそ1,900人、安渡・大平には630人あまりの会津の人々が入りました。当時の田名部の人口は3千人ほどと推定され、町の人口の6〜7割にあたる人数が一度に増えたことになります。地元の食料も住まいも、それだけの人を抱える余裕はありませんでした。

時期が遅すぎた

主力が着いたのは6月以降で、陸路の組は秋に出発しています。一年目の作付けにはほぼ間に合わなかったと考えられます(これは筆者の推測です)。扶持米は一人一日三合で、南京米が混じった粗末なものだったといい、それもまもなく打ち切られました。

地元も疲れ切っていた

斗南藩の領地は、もとは盛岡藩(南部家)の土地でした。盛岡藩もまた戊辰戦争で負けた側で、一度は白石へ移され、多額の献金を条件にようやく盛岡へ戻ることが許されています。盛岡市の資料によれば、その負担で藩財政はすぐに行き詰まり、全国に先がけて廃藩を願い出ました。受け入れた側もまた、敗者の土地だったのです。

時間がなかった

そして移住から約1年で廃藩置県を迎え、藩としての支えはなくなりました。地元の知恵を身につけるには何年もかかるはずですが、その時間は与えられませんでした。むつ市の資料によれば、田名部に残った旧藩士は、やがて約50戸ほどになったといいます。

知恵を生かした人もいた—広沢安任の牧場

鶴ヶ城 天守と走長屋
会津若松の鶴ヶ城(撮影:幕末歴史ガイド)

もちろん、地元の強みを生かした人もいます。斗南藩の少参事だった広沢安任は、明治5年(1872)、今の三沢市の谷地頭にイギリス式の牧場「開牧社」を開きました。イギリス人技術者を雇い、八戸藩の大参事だった太田広城とも組んで、日本初の民間の洋式牧場とされています。

三沢の近くには、盛岡藩最大の放牧場だった木崎の牧がありました。米にこだわらず、この土地がもともと得意としてきた「馬」の道を選んだことが、広沢の成功の大きな理由だったのではないかと、わたしは考えています。今も三沢市には先人記念館と斗南藩記念観光村があり、その歩みをたどることができます。

教育の分野でも、三戸に住んだ日新館の教授・杉原凱の弟子たちが青森県の教育界で活躍したと、三戸町は伝えています。

筆者の考え

「なぜ地元の知恵で暮らせなかったのか」という最初の疑問に、わたしが今たどり着いた答えはこうです。

地元の人々の知恵は、何世代もかけて身につけた「米のない土地で、少ない人数が生き延びる技術」でした。そこへ、米で暮らしてきた1万7千人が、作付けに遅れた季節に、わずかな扶持米と1年あまりの時間だけを持ってやって来た。地元の人々は戸を開き、救貧所まで建てましたが、自分たちも飢饉の記憶を抱えた、余裕のない暮らしでした。知恵が足りなかったのではなく、知恵を分け合うための時間と余力が、どちらの側にもなかったのだと思います。

斗南の悲劇は、会津の人々だけの物語として語られがちです。けれど、見知らぬ大勢を家に迎え入れた三戸や田名部の人々の姿にも、もっと光が当たってよいのではないでしょうか。

あわせて読みたい

参考資料:三戸町「会津若松市とのつながり」、むつ市「斗南藩」パンフレット、青森県観光資料、盛岡市 盛岡城跡関連資料、八戸ポータルミュージアムはっち「稗三合一揆」、農林水産省「うちの郷土料理」青森県、岩手県立図書館 郷土資料、十和田市資料、コトバンク(日本大百科全書「斗南藩」「広沢安任」ほか)、山崎一穎「斗南藩」関連論考(跡見学園女子大学紀要)、星亮一『斗南藩』(中公新書)、石光真人編著『ある明治人の記録』(中公新書)。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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