【藩名】
下野上田藩
【説明】
元禄5年(1692年)2月7日、「徳川綱吉」の寵臣であった安房東条藩主「西郷寿員」は、下野国都賀郡・河内郡・芳賀郡に所領を移されました。これにより、下野上田藩が立藩しました。
だが、寿員の養父で隠居の「西郷延員」が不行状の咎を受けて寿員預かりの蟄居の身になると、寿員もその余波を受けます。翌元禄6年(1693年)11月、寿員は養父と同じく不行状・勤務怠慢などの罪を咎められて所領の半分を没収され、下野上田藩は2年足らずで廃藩となりました。以後、西郷家は5千石の交替寄合となりました。
【二年で消えた藩の跡地は、旗本の知行地として幕末を迎えました】
下野上田藩が立ったのは元禄五年(1692年)、消えたのは翌元禄六年(1693年)です。二年に満たない藩でした。このとき西郷寿員は所領を半分に減らされ、五千石の旗本となります。「交替寄合」と紹介されることもありますが、幕府の交代寄合の家名一覧に西郷家は見当たらず、そう断定できる裏づけは取れませんでした。
藩が消えたあとも、しばらく上田村は西郷家の知行地でした。寿員の義父にあたる西郷延員は、元禄十年(1697年)にこの上田で亡くなっています。そして元禄十一年(1698年)三月、寿員の知行地は下野から近江国内へ移されました。西郷家はこの土地から完全に離れたことになります。
入れ替わりに上田村は旗本の知行地となり、そのまま幕末を迎えました。『旧高旧領取調帳』にもとづく調査では、下野国都賀郡上田村は「旗本領分」、石高は七百三十二石余と記録されています。壬生藩領でも天領でもなく、旗本の領地だったわけです。
その上田村のすぐ近く、壬生藩では幕末に激しい戦いが起きました。藩主は第七代鳥居忠宝、三万石の譜代です。慶応四年(1868年)四月、宇都宮城を奪った旧幕府軍が壬生城へ向かい、四月二十二日の未明、壬生の東の安塚で戦端が開かれます。豪雨のなかの激戦で、新政府軍は一時陣地に踏み込まれながらも押し返しました。
町に残る記録によれば、この戦いでは壬生藩兵が誤って味方の攻撃を受けるという混乱もあり、壬生城は落城寸前まで追い込まれたといいます。午後になって薩摩・長州・大垣の兵が城に入り、翌日には宇都宮が奪い返されました。
もうひとつ、この地で目を引くのは武士以外の住民が隊を組んだことです。都賀郡の神職をまとめた利鎌隊、そして蒼龍隊が組織され、地域に残る旧幕府方の勢力を追い払う役目を担いました。壬生城跡は本丸を残して堀と土塁の大半が失われ、戦後に学校用地として整地されています。
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