坂本権平(兄) 宛
| 原文 |
| 其後芸州の船より小蝶丸ニ乗かへ須崎を発し、十月九日ニ大坂に参り申候。則今朝上京仕候。此頃京坂のもよふ以前とハよ程相変、日々にごて々と仕候得ども、世の中は乱んとして中々不乱ものにて候と、皆々申居候事に御座候」先は今日までぶじなる事、幸便ニ申上候。謹言々。十月九日梅太郎〆上町本一丁目坂本権平様坂本龍馬御直披 |
| 現代文 |
| 芸州藩(広島藩)の船で小蝶丸に乗り換えて須崎(高知県)を出発して10月9日に大阪に着きました。すなわち、今朝上京しました。この頃の京都・大阪は以前とは違う感じで、日々ごてごてしているが、世の中は乱れそうでいて、なかなか乱れないものだと、皆が言っています。まずは今日まで無事でいるのでその旨手紙で送ります。10月9日梅太郎(龍馬変名)〆上町本一丁目坂本権平様(兄)坂本龍馬 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「芸州(広島)藩の船から小蝶丸に乗り換えて須崎を発ち、十月九日に大坂へ着きました。今朝、上京しました。近ごろの京坂の様子は以前とよほど変わり、日々ごてごてと騒がしい。世の中は乱れそうで、なかなか乱れきらぬものだと皆が言っています。まずは今日まで無事だ」と、兄に近況を知らせる手紙です。十月九日付、梅太郎の署名。慶応三年(1867)十月九日といえば、なんと大政奉還のわずか五日前。歴史が大きく動く直前の、張りつめた京坂の空気が伝わってきます。
宛先「坂本権平(兄)」とは

坂本権平は龍馬の長兄で、坂本家の当主です。脱藩した弟を陰で案じ続けた人物で、龍馬は折にふれ兄に無事を知らせていました。
この手紙が書かれたころ
大政奉還の直前、諸藩の船を乗り継いで上方へ入り、政局の最終局面に身を置いていました。「世の中は乱れそうで乱れきらぬ」という観察に、時代の際どい均衡を見抜く龍馬の眼が光ります。慶応三年十月、十五代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷へ返上する大政奉還が目前に迫っていました。京坂は諸藩の兵と志士でごった返していたのです。土佐藩が主導した大政奉還の建白が、まさに実現しようとしていた時期です。龍馬はその歴史的な転換の、中心近くに身を置いていました。
五年ぶりの帰郷を終えて、兄に送った最後の便り
手紙には「十月九日」とあるだけで、年は書かれていません。宮地佐一郎は『龍馬の手紙』でこれを百十番「慶応三年十月九日 坂本権平あて」として収め、慶応三年と比定しています。現物は京都国立博物館の所蔵です。文化遺産オンラインの解説によれば、龍馬はこの年の九月末、長崎からライフル銃千挺を積んだ安芸藩の船震天丸で土佐へ戻り、脱藩から五年ぶりに家族と再会しました。数日の滞在ののち須崎から船出したことが、この手紙の冒頭に書かれています。
同じ解説は、これを土佐の家族に宛てた最後の手紙と位置づけています。紙の下半分には墨が移った跡が残っており、龍馬が巻紙を左手に持ち、立ったまま筆を走らせたことが分かるそうです。久しぶりに会ったばかりの兄へ、用件を省いて無事だけを急いで知らせた、慌ただしい時期の一通です。封の表には兄の住まいの「上町本一丁目」が書かれ、「御直披」と兄自身が開くよう求めています。
同じころの日本—大政奉還と討幕の密勅
京都では 慶応三年(1867)十月十四日、将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返すことを願い出て、翌十五日に許されました。大政奉還です。ところが同じ十月十四日、薩摩と長州には、幕府を討てという「討幕の密勅」がひそかに下されていました。政権が返されたことで、この密勅はいったん実行されないままとなります。
龍馬の最後のひと月 故郷の兄・権平に宛てたこの手紙のころ、龍馬は新しい政府の人選や仕組みを考え、十一月には「新政府綱領八策」をまとめました。その龍馬が京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲われるのは、慶応三年十一月十五日のことです。兄への手紙は、龍馬の生涯の最後の時期に書かれたものでした。
兄・権平という人と、慶応三年十月の土佐藩
二十二歳上の兄
宛先の坂本権平は、文化十一年(1814年)生まれで、龍馬より二十二歳上の兄です。安政二年に父の八平が亡くなると、翌年に家督を継ぎ、坂本家の当主となりました。龍馬の脱藩には反対しましたが、のちには資金の面で弟を支えています。慶応三年二月には、土佐を訪れた西郷隆盛に、家宝の刀を龍馬へ届けるよう託しました。
龍馬の死後の権平
この手紙から一か月余りのち、龍馬は京都で暗殺されました。権平は、長府藩士の三吉慎蔵に送られて高知に来たお龍を引き取っています。しかし、お龍は三か月ほどで土佐を去りました。権平は明治四年七月に亡くなり、坂本家は、姉・千鶴の次男で権平の養子となった直寛が継ぎました。龍馬の家名は、千鶴の長男の高松太郎(坂本直)が継いでいます。
建白書の提出と、討幕の密勅
龍馬がこの手紙を書いた十月九日の六日前、土佐藩は山内容堂と後藤象二郎の名で、大政奉還の建白書を幕府に出していました。十月十四日、将軍慶喜は政権を朝廷に返すことを申し出ます。同じ日、薩摩と長州には討幕の密勅が下されていました。龍馬が書いた「世の中は乱れそうでなかなか乱れない」という言葉は、まさにその緊張の中で書かれたものです。
坂本龍馬の手紙を時代順に読む(一覧の123通目/全135通)
手紙の一覧に戻る / 亀山社中と海援隊 / 海援隊士一覧 / 近江屋跡(現地取材)
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



