本山只一郎 宛
| 原文 |
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一筆啓上仕候。然ニ先日御直申上置候二件の御決議、何卒明朝より夜にかけ拝承仕度。将、芸州士官の者共も京師の急ニ心せき、出帆の日を相尋られ居申候。彼是の所御察被遣候。 早々御決の上、出帆の期御命相願候。誠恐謹言。九月廿七日直柔本山先生左右 |
| 現代文 |
| 一筆書かせて頂きます。先日じかに申し上げた件ですが、何卒明朝から夜にかけて返事を頂戴したい。はた、芸州藩仕官の者共も京都の急変に焦りだし、出航の日を尋ねられました。このところお察し下され。早々に決定の上、出航の時期を教えて下さい。9月27日直柔(龍馬の本名)本山先生(本山只一郎:土佐藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「先日じかに申し上げた二件の返事を、明朝から夜にかけていただきたい。芸州(広島)藩の士官たちも京都の急変に焦り、出帆の日を尋ねてきている」という、緊迫した連絡です。九月二十七日付、本名「直柔(なおなり)」の署名。慶応三年(1867)九月といえば大政奉還の直前で、薩摩・長州・芸州が挙兵の準備を進めていた時期。その張りつめた空気が伝わってきます。
宛先「本山只一郎」とは
本山只一郎(もとやま ただいちろう)は土佐藩士で、龍馬の周辺で連絡や実務に関わった人物です。緊迫した局面で船の手配を任される、信頼された相手でした。
この手紙が書かれたころ
大政奉還へ向けた最終局面で、諸藩の船や兵の動きを調整していました。一日の遅れが情勢を左右しかねない、緊張の連続のなかにありました。薩長芸を軸とする武力倒幕の動きと、土佐が主導する大政奉還論とがせめぎ合っていました。歴史がどちらに転ぶか分からない、際どい均衡の時期でした。土佐藩は後藤象二郎を通じて大政奉還を建白しようとしており、龍馬はその実現に奔走していました。武力によらぬ政権移行を、土佐は最後まで模索していたのです。
芸州の蒸気船で運んだ小銃千挺と、出帆を急ぐ士官たち
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では109番「慶応三年九月二十七日 本山只一郎あて」で、年は宮地による比定です。写真の説明には「京都 霊山歴史館蔵」とあります。宮地の本で前後の手紙を並べると、この時期の動きがたどれます。九月二十日の木戸孝允あて(107番)では、自分の一存で小銃千挺を買い、芸州の蒸気船を借りて土佐へ運ぶ途中に下関まで来たと書き、九月二十四日の渡辺弥久馬あて(108番)では、千挺を積んで浦戸へ回ったこと、下関で京都からの急報を聞き、薩摩の兵が上京して長州も兵を大坂へ出す約束になったことを知らせています。
この手紙の「芸州士官の者共」は、借りた芸州の船に乗ってきた人々とみられ、京都の情勢に気がせいて出帆の日を尋ねていました。「先日御直申上置候二件」の中身は、手紙からは分かりません。その後について龍馬は、十月九日の兄権平あて(110番)で、芸州の船から小蝶丸に乗りかえて須崎を発ち、十月九日に大坂へ着いたと書いています。
同じころの土佐と京都—大政奉還の直前
土佐では 慶応三年(1867)九月二十四日ごろ、龍馬はライフル銃を積んだ震天丸で土佐の浦戸に入りました。脱藩以来、およそ五年半ぶりの帰郷です。龍馬は藩の重役たちに銃を引き渡すとともに、京都の情勢を伝え、土佐藩が出遅れないよう説きました。宛名の本山只一郎は、この時期の土佐藩の重役の一人です。
京都では この手紙の六日後の十月三日、後藤象二郎は山内容堂の名による大政奉還の建白書を老中に提出しました。将軍慶喜が二条城に諸藩の重臣を集め、政権を朝廷に返すことを告げたのは十月十三日、朝廷に願い出たのは翌十四日のことです。
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