佐佐木高行 宛
| 原文 |
| 今日の挙や、あへて私しおいとなむニ非ざるなり。則天地神明の知る所なり。唯大人の病苦をなぐさめん事を欲して也。相会する面々は、女隊ニては西川のニ女─〇此段尤密ナリ─及胡弓妓外一人、是又有名の一妓、其外下関の老婆、今日相会し次第─但し四時迄の心積なれども、九つ時ニも相成んか。─使者さし出申候間、唯今より駕を命じ、且左右調度など御とりしらべ可被成。弊館ニは弾薬大小の砲銃取りそろへ在之、一度令し候得ば、諸将雲の如ニ相会、百万の兵馬唯意の如くと奉存候。誠恐百拝。龍 |
| 現代文 |
| 本日の件は、あえて私の企画ではありません。すなわち、天地新明の知るところです。ただ大人の日ごろの疲れを慰めたいとのことです。お会いする女性の面々は、西川のニ女(このことは秘密です)、胡弓(日本の擦弦楽器)を引く芸妓の他一人で、これまた有名な芸妓です。この他に、下関の老婆(誰のことかは確かめられていません)が本日の参加者です。ただし、四時迄(10時頃)までの予定だけど、九つ時(12時頃)くらいになるかもしれない。使者を差し向けるので、籠を用意しておいて下さい。この館には弾薬や大小の砲銃などがあるので、一度命令を下せば諸将は雲のごとく、百万の兵馬のごとくです。龍馬 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
土佐藩士・佐佐木高行へ宛てた、宴席への誘いをしたためた愉快な手紙です。これは自分の企てではなく天の配剤で、日ごろの疲れを慰めるためだと戯れつつ、当日顔を合わせる芸妓たちや、「下関の老婆」まで、参加者を面白おかしく紹介しています。命がけの政局のかたわらにあった、龍馬の陽気な素顔がのぞく一通です。
宛先「佐佐木高行」とはどんな人物か

土佐藩士で、大政奉還の推進に力を尽くし、のちに明治政府の要職に就いた人物です。龍馬とは長崎などで親しく交わり、酒席をも共にする間柄でした。
この手紙が書かれたころ
大政奉還への工作に奔走する一方、龍馬は同志との酒宴で英気を養う陽気さも失いませんでした。張りつめた日々のなかの、こうした息抜きが人と人との絆を深めていました。倒幕と大政奉還への動きが大詰めを迎え、志士たちは緊張の日々を送っていました。だからこそ、束の間の宴が心の支えともなっていました。土佐藩が大政奉還へ動くころ、龍馬は佐佐木高行ら藩の要人とも親密に交わっていました。公私にわたるこうした結びつきが、土佐藩内での連携を支えていました。
「此段尤密ナリ」と、延びそうな宴の刻限
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この手紙を九十九番に置き、慶応三年九月初旬の佐々木高行あてと比定しています。日付も宛名も書かれていないため、時期と宛先はどちらも宮地の比定です。九十八番の「尼将軍」の手紙とともに、原本は大洗町幕末と明治の博物館の所蔵と底本に記されています。宮地の本文では「(○此段尤密ナリ)」という書き込みが「西川の」と「二女」のあいだに入っており、内密にという念押しは西川の二女にかかる部分に付けられています。
刻限については「四時迄の心積なれども、九つ時ニも相成んか」とあり、四つ時までのつもりが、一刻ほど延びて九つ時になるかもしれないと見込んでいます。使者を出すので、今すぐ駕籠を命じて身支度を整えておくようにと、佐々木に出かける用意を促しています。高知市の広報誌の広谷喜十郎氏の解説によれば、八月二十八日ごろから龍馬は長崎で佐々木をしばしば訪ね、時に寝起きを共にしていました。
同じころの土佐—大政奉還建白書の中身
建白書の内容 慶応三年(1867)九月、土佐藩は山内容堂の名で幕府に出す大政奉還の建白書をまとめていました。そこには、政権を朝廷に返すことに加えて、京都に上下二つの議政所を置き、公卿から陪臣・庶民までのなかから正しく優れた者を選んで議員とすること、海軍を整えること、外国との条約を改めることなどが書き込まれています。龍馬の「船中八策」の考えが、藩の公式な提案として形になったものでした。
宛名の佐佐木高行 佐佐木は土佐藩の大目付で、建白をまとめる藩の中枢にいた一人です。長崎でイカルス号事件の処理にあたりながら、佐佐木と龍馬は藩の進路についても意見を交わしていました。
慶応三年九月、長崎で事件の決着を待つ日々
イカルス号事件の行方
この九月、龍馬と佐佐木高行は長崎で、イカルス号事件の審理に向き合っていました。海援隊士が英国水兵を殺したという嫌疑は、確かな証拠のないまま長く尾を引きます。最終的に海援隊の嫌疑は晴れ、真犯人は福岡藩士の金子才吉とされました。金子は事件の直後に自ら命を絶っていたことが、のちに分かっています。
疲れた大目付を慰める宴
手紙で龍馬が「大人の日ごろの疲れを慰めたい」と書いている相手は、佐佐木高行です。土佐藩の大目付として、英国との交渉と事件の審理を背負っていた佐佐木の苦労を、龍馬はよく知っていました。芸妓の名前まで挙げて宴を整える龍馬の手紙からは、重役を気づかう細やかさが伝わってきます。
建白へ向かう土佐藩
同じころ、京都では後藤象二郎が大政奉還の建白書を練り上げていました。九月の初めには薩土盟約が解消されましたが、土佐藩は建白を出す道を捨てませんでした。建白書が幕府に出されたのは、十月三日のことです。
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