佐佐木高行 宛
| 原文 |
| 私より藤屋の空虚を突可申、大兄も其儘ふじやに御もりかへしは、いかゞに候や。謹言。即日龍 |
| 現代文 |
| 私は藤屋の手薄なところを突きますので、大兄(佐佐木高行:土佐藩士)もこのまま藤屋に盛り返して(来ては)は如何でしょうか?即日龍馬 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「私から藤屋に部屋を空けるよう言うので、大兄もこのまま藤屋に来ては如何か」と、長崎の料亭での会合を誘う短信です。日付は「即日」のみで年は不明ですが、龍馬が長崎を拠点にしていた亀山社中〜海援隊期(慶応元〜三年ごろ)のものとみられます。
宛先「佐佐木高行」とは

佐佐木高行(ささき たかゆき)は土佐藩士で、土佐勤王党から藩の要職へと進み、海援隊を監督する立場にもあった人物です。維新後は元老院議官や枢密顧問官を歴任し、詳細な日記『保古飛呂比(ほこひろい)』を残したことでも知られます。龍馬と土佐藩をつなぐ重要な結び目でした。
この手紙が書かれたころ
長崎で亀山社中を営み、交易と海運で資金を得ながら政局に関わっていた時期です。料亭での会合も、情報交換と人脈づくりの大切な場でした。長崎は諸藩と外国商人が交わる交易の最前線で、武器や船の取引が政局を左右しました。龍馬はその現場で立ち回っていました。土佐藩は佐佐木高行らを通じて海援隊を管理下に置き、龍馬の事業を藩の利益にも結びつけようとしていました。藩と浪士の距離が縮まっていく時期でした。
佐々木高行と組んだ、即日の知らせ
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの一通を慶応三年八月下旬のものとし、出典を『佐々木高行日記』としています。つまり受け取った佐々木 高行の側の記録に書き写されて残った手紙です。書簡の日付は「即日」だけで、その日のうちに走り書きして届けたものでしょう。
文中の「藤屋」がどこを指すのかは、こちらでは確認できません。龍馬が藤屋の「空虚を突く」と言い、佐々木にもそのまま藤屋に「もりかえし」てはどうかと持ちかけていますから、二人で手分けして何かの場に乗り込もうとしていたように読めます。八月下旬の長崎といえば、イカルス号事件で英国側と土佐藩の談判が続いていた時期で、龍馬と佐々木はその当事者でした。隊を監督する大監察と、隊を率いる龍馬が、ここでは同じ側に立って動いています。
イカルス号事件のその後
犯人は別にいた 慶応三年(1867)七月六日の夜、長崎の丸山でイギリス軍艦イカルス号の水兵二人が斬り殺されました。疑いをかけられたのは海援隊で、イギリス公使パークスは土佐藩に厳しく迫り、八月にはみずから土佐の須崎まで出向いて談判しています。龍馬と佐佐木高行は長崎で取り調べに応じ、海援隊の無実を主張しました。
真相 結局、海援隊の関与を示す証拠は見つからず、事件はうやむやのまま終わります。真相がわかったのは明治に入ってからで、斬ったのは福岡藩士の金子才吉であり、金子は事件の直後に自ら命を絶っていたことが明らかになりました。
坂本龍馬の手紙を時代順に読む(一覧の110通目/全135通)
なぜ佐佐木高行に、これだけ手紙が来るのか
龍馬の書簡を宛先別に見ると、佐佐木高行あては慶応三年八月二十四日から九月十八日までに十二通が集まっています。ひと月足らずで十二通。理由は佐佐木の役目にありました。
東京大学史料編纂所の『保古飛呂比』の解題によりますと、佐佐木は慶応三年に大目付へ抜擢されて京都に派遣され、長崎での外国人傷害事件の対応にあたって諸外国の領事や商人と交渉し、そのなかで「坂本龍馬等海援隊員との連絡」を担当していました。
海援隊の隊士が疑いをかけられた事件で、藩の側の窓口がこの人だったわけです。龍馬が毎日のように書き送っているのは、友人への便りというより、交渉の実務報告に近いものでした。
なお、佐佐木の幕末の役職を「大監察」とする記述も見かけますが、国立国会図書館や東京大学史料編纂所の資料はいずれも「大目付」としています。
佐佐木高行は何をした人か
国立国会図書館「近代日本人の肖像」によりますと、佐佐木高行は文政十三年十月十二日生まれ、明治四十三年三月二日没。高知藩士として郡奉行・大目付をつとめ、坂本龍馬らと交わって大政奉還の実現に尽力しました。戊辰戦争では海援隊を率いて長崎奉行所を占拠しています。龍馬が討たれたあと、海援隊を動かしたのはこの人でした。
東京大学史料編纂所によると、生家は土佐藩の馬廻組で禄高百石。文久二年に文武調役・小目付兼帯、文久三年に海防御用取扱、元治元年に郡奉行兼普請奉行。慶応元年には勤王党への同情を危険視されて役を転々とし、慶応二年に小目付へ戻り、慶応三年に大目付となります。
維新後は参議、司法大輔、明治四年の岩倉使節団に司法省理事官として参加、明治十四年に参議兼工部卿、のち宮中顧問官・枢密顧問官。明宮すなわち大正天皇の教育にも携わりました。
この時期を裏から読める日記『保古飛呂比』
佐佐木あての手紙を読むときに心強いのは、受け取った側の記録が刊行されていることです。
『保古飛呂比』は東京大学史料編纂所が編み、東京大学出版会から全十二巻が昭和四十五年から五十四年にかけて刊行されました。収録年代は天保元年から明治十六年まで。第二巻が元治元年から慶応三年にあたり、龍馬と行き合う時期をそのまま含みます。
ただし性格には注意が要ります。史料編纂所自身が解題で「編年体の伝記史料であって日記ではない」と断り、「佐佐木高行日記」という題名が流布しているので原題と併せて掲げたと書いています。底本は維新史料編纂会が旧蔵し同所が引き継いだ写本六十三冊。原本は百二十冊といわれますが焼失したとされ、現存状況は分かっていません。
つまり龍馬の手紙と突き合わせるとき、こちら側は「同時代にその日書かれた日記」ではなく、のちに編まれた伝記史料だということになります。それでも、天皇と大臣・参議の関係を知るうえで欠かせない史料と評価されています。
参考資料
佐佐木の生没年と維新後の経歴は国立国会図書館「近代日本人の肖像」、藩内での役職の推移と『保古飛呂比』の性格・底本・刊行は東京大学史料編纂所の解題、岩倉使節団への参加は国立公文書館アジア歴史資料センターによります。宛先ごとの通数は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』を底本とする翻刻の索引から数えた参考値です。「大監察」という役職名は公的資料では確認できません。
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