高柳楠之助 宛
| 原文 |
| 今日も鬱陶しき天気に御座候。愈御佳安奉賀候。然れば昨日官長罷出、茂田君と御約定申上候通、今廿七日英国水師提督に対面之儀者、第十字より彼船に御同行申度奉存候間、此段御通達申上候。当方へ御入来被下候や。又当方より罷出可申や。御返事此者へ為御聞被下度如此御座候。以上。五月廿七日才谷梅太郎高柳楠之助様 |
| 現代文 |
| 今日も天気がよくないですね。いよいよご健勝のようでなによりです。さて、昨日は官長(後藤象二郎)が出まして、茂田君(紀州藩代表茂田一次郎:勘定奉行)と約定を致しました。本日二十七日の英国水師提督との対面は、十時から先方の船へご同行いたしたく、その旨ご通達致します。当方へ来てくれますか?もしくは当方からそちらへ行きますか?お返事をお聞かせ下さい。5月27日才谷梅太郎(龍馬変名)高柳楠之助様(紀州藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「昨日、官長(後藤象二郎)が出て、茂田一次郎(紀州藩の勘定奉行)と取り決めをしました。本日二十七日の英国提督との対面には、十時から提督の船へ同行したい」という手紙です。五月二十七日付、才谷梅太郎の署名。慶応三年(1867)、海援隊のいろは丸が紀州藩船と衝突・沈没した事件の賠償交渉が、大詰めを迎えていた時期の生々しい一通です。
宛先「高柳楠之助」とは

高柳楠之助(たかやなぎ くすのすけ)は紀州藩士で、いろは丸事件では紀州側の関係者でした。交渉の相手方でありながら、実務の連絡を取り合う間柄でもありました。
この手紙が書かれたころ
土佐藩参政・後藤象二郎の後ろ盾を得て、大藩・紀州との賠償交渉を主導していました。英国の海軍提督まで絡む、国際的な駆け引きの只中にありました。万国公法(国際法)を武器に、大藩相手に賠償を勝ち取る―近代的な紛争解決の手法が芽生えた、象徴的な出来事でした。後藤象二郎ら土佐藩がいろは丸事件の後ろ盾となり、藩ぐるみで交渉に臨みました。海援隊の一件は、土佐藩の面目もかかった大事でした。
鞆で争った明光丸の船長を、英国提督の船へ誘う
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この手紙を慶応三年五月二十七日のものと比定しています(七十四番)。宛先の高柳楠之助は、伊呂波丸に衝突した紀州藩の明光丸の船長で、鞆の浦での最初の話し合いでも龍馬の相手をつとめました。宮地はこの直前に、五月中下旬ごろの高柳あての手紙(七十三番)を置いています。そこでは、鞆で「世界之公法」によって処置すると約束したのに、長崎では幕府の裁きを仰ぐことだと言い出したのは納得できないと、厳しく詰め寄っています。
そのあとに書かれたこの手紙は、天気のあいさつから始まり、こちらから出向くか、そちらが来てくれるかと丁寧に尋ねる穏やかな文面に変わっています。愛媛県の『えひめの記憶』によれば、紀州藩はこののち薩摩の五代才助の仲介で賠償金八万三千両の支払いを約し、のちに七万両で折り合いました。この日の提督との対面がどうなったかは、手紙からは分かりません。
同じころの長崎—いろは丸の決着
談判の結末 慶応三年(1867)五月の終わり、いろは丸の沈没をめぐる交渉は、紀州藩が賠償金を払うことで決着しました。間に入ったのは薩摩藩の五代友厚で、その額は八万両余りとされます。のちに減額されたともいわれますが、海援隊は徳川御三家を相手に、話し合いで賠償を勝ち取ったことになります。
宛名の高柳楠之助 宛名の高柳楠之助は、この交渉で紀州藩側に立った人物です。交渉の相手方にまで手紙を送っているところに、争いを話し合いでまとめようとする龍馬の姿勢がうかがえます。
慶応三年五月二十七日、談判の決着
前日の約定
この手紙によれば、前日の二十六日に、土佐藩の後藤象二郎と紀州藩の茂田一次郎の間で約定が交わされています。いろは丸の沈没をめぐる争いは、ここで紀州藩が償いを払う形で決着に向かいました。償いの額は八万三千両余りとされ、のちに減額されて七万両となります。その七万両が長崎で土佐藩に支払われたのは、十一月七日のことでした。
明光丸の船長、高柳楠之助
宛先の高柳楠之助は、いろは丸とぶつかった紀州藩の明光丸の船長です。鞆の浦での四日間の談判では、紀州藩側として、千両の見舞金と一万両の立て替えを持ち出しましたが、龍馬は受け入れませんでした。争った当の相手を英国提督の船へ誘っているこの手紙には、決着がついた以上は恨みを残さないという、龍馬の割り切りがのぞきます。
京都へ向かう後藤と龍馬
談判を終えた後藤と龍馬は、六月九日に土佐藩の船・夕顔で長崎を発ち、京都へ向かいました。その船中で龍馬が新しい国の形を後藤に示したのが「船中八策」だと伝えられます。ただし近年は、船中八策を後世にまとめられたものとみる説が有力です。
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