小幡藩/奥平松平家2万石:松平忠恕 戊辰戦争では早くから新政府軍に恭順して家名を保った小幡藩

小幡藩 奥平松平家2万石 最後の藩主 松平忠恕
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小幡藩の歩み

上野上里見藩より、若年寄の「松平忠恒」が二万石で入封します。奥平松平家の歴代藩主4人は若年寄、寺社奉行、奏者番などを歴任しました。小幡藩は毎年財政難となり藩の借金は、天保十五年(1844年)には収入に対して10倍近くにまでなったと言われています。

明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では早くから新政府軍に恭順して家名を保ちました。翌年の「版籍奉還」で最後の藩主「松平忠恕」は小幡藩知事となり、明治四年の「廃藩置県」で小幡藩は廃藩され小幡県となり、同年十月には群馬県に編入されました。

織田氏ゆかりの地・小幡

小幡藩は、上野国甘楽郡小幡(現在の群馬県甘楽町)に置かれた二万石の藩です。この地はかつて織田信長の子孫が治めた由緒を持つ土地でしたが、のちに奥平松平家が藩主となって幕末を迎えました。名園・楽山園などを残した城下町として知られます。

早くからの恭順

幕末の小幡藩は、戊辰戦争にあたって早くから新政府軍への恭順を選び、家名を保ちました。小藩ゆえに大きな軍事的役割こそ担いませんでしたが、時流を的確に読んで無用な戦火を避けた、堅実な判断が光ります。

織田信長の子孫が治めた藩

小幡藩の前半は織田家の時代です。元和元年(1615年)七月、織田信長の二男・信雄に上野小幡二万石が与えられ、翌年に四男の信良が小幡に入り、以後およそ百五十年、七代(八代と数える場合もあります)にわたって織田家が小幡を治めました。

その織田家が小幡を去ることになったのが、明和四年(1767年)の明和事件です。

きっかけは明和三年に起きた藩財政の再建をめぐる重臣どうしの内紛でした。幕府はこの内紛にかこつけて、尊王思想を説いていた山県大弐と藤井右門を捕らえます。大弐は死罪、右門は獄門となりました。そして明和四年八月、この事件に連座したとして藩主の織田信邦は強制的に隠居させられ、家督を継いだ信浮は家格を落とされたうえで出羽高畠藩への移封を命じられます。小幡での百五十年はこうして終わりました。織田家はのちに天童藩となって幕末を迎えます。

甘楽町の崇福寺には、信雄から信富まで織田家七代の墓が並んでいます。昭和三十八年に町の史跡に指定されました。

楽山園と、城下町に残るもの

織田家が残した最大のものが楽山園です。三代の信昌が寛永十九年(1642年)に小幡陣屋への移転を終えたころ、陣屋の南側に造られた池泉回遊式の庭園で、京都の桂離宮と同じ特色を持つといわれます。広い昆明池を掘り、築山にあずまやを置き、熊倉山・連石山・紅葉山を借景としました。平成十二年三月に国の名勝に指定され、発掘調査を経て平成二十三年度まで復元整備が行われています。

城下町もよく残ります。中小路は道幅七間、およそ十二・六メートル。旧陣屋に面して「喰い違い郭」があり、戦のときの守りのためとも、下級武士が上級武士と出会うのを避けるためともいわれます。松浦氏屋敷は平成九年に群馬県の史跡「旧小幡藩武家屋敷松浦氏屋敷」に指定され、茅葺きの主屋と庭園が公開されています。勘定奉行の高橋家には心字池と「蓬莱の滝」が残ります。

町を貫く雄川堰は、織田氏が陣屋の移転を計画した寛永六年から完成の寛永十九年のあいだに改修されたと考えられており、平成二十二年に町の重要文化財となりました。疏水百選と名水百選の両方に選ばれています。三か所の取水口がそれぞれ一升枡・五合枡・三合枡の大きさになっているのが、いかにも江戸の設計です。

幕末の小幡藩—天狗党を見送った藩

明和四年閏九月、上野上里見藩主で幕府の若年寄であった松平忠恒が二万石で入り、奥平松平家が四代およそ百年を治めて廃藩置県を迎えます。嘉永三年(1850年)には城主格が認められ、小幡陣屋は小幡城と呼ばれるようになりました。

幕末の藩主・松平忠恕は安政三年に家督を継ぎ、奏者番、寺社奉行を務めた人です。

元治元年(1864年)十一月、天狗党の西上軍が上野を通りました。幕命を受けた小幡藩は藩士二名を吉井へ差し向け、追討令が出ている以上は通行を見過ごせないと申し入れます。ところが協議をしているあいだに、天狗党は通過していきました。高崎藩との作戦会議には出ましたが、出陣はしていません。高崎藩は、下仁田の地理に詳しい小幡と七日市藩の両藩が先導すべきだと主張しています。

結局、十一月十六日の下仁田戦争で天狗党と戦ったのは高崎藩でした。家老の宮部兵右衛門以下六百人が四隊に分かれて向かい、三面から奇襲を受けて討死二十七人、処刑七人、あわせて三十六人を失っています。事件の全体像は天狗党の乱とは何だったのかでたどっています。

慶応四年(1868年)二月、小幡藩の領内で世直し一揆が起きて大きな被害が出ました。翌三月、忠恕は新政府軍に武器を献上して新政府に与しています。早い恭順が家名を守りました。

山県大弐を見出した藩主と、楽山園

明和事件の発端

明和事件のきっかけは、小幡藩家老・吉田玄蕃でした。玄蕃は山県大弐の門人で、明和3年(1766)に用人の松原郡太夫らに失脚させられ監禁されます。連座を恐れた大弐の門人が大弐の謀反計画を幕府に訴え出て、事件に発展しました。大弐は宝暦6年(1756)に江戸で兵学を講じたとき、藩主・織田信邦に認められていたとされます。織田家は信長の孫の家として「国主格」の待遇を受けていましたが、この事件で取り消されました。

楽山園と崇福寺

楽山園の名は『論語』の「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」に由来し、「梅の茶屋」と五角形の「腰掛茶屋」がある上州唯一の大名庭園とされます。崇福寺の位牌堂には信雄をはじめ織田家の位牌10体があり、平成30年(2018)に甘楽町の文化財に指定されました。初めの藩庁は福島御殿で、寛永19年(1642)に小幡陣屋へ移ったといわれます。

松平家の苦しい財政

宝暦5年(1755)には収入6千両余に対し支出は1万2千両余だったとされ、入封後の松平家は寛政11年(1799)に低利で貸し付ける「恵民講」を設けましたが、効果は乏しかったといいます。松平家のその後については上里見藩を参照してください。

考察:学問を愛した藩主が招いた悲劇

山県大弐の才能を認めたことが、結果として家の格を落とす事件につながった。小幡藩の織田家は、学問への開かれた姿勢が政治の危うさと隣り合わせだった時代を象徴しているように思います。

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