三吉慎蔵 宛
| 原文 |
| 此度出崎仕候上ハ、御存の事件ニ候間、万一の御報知仕候時ハ、愚妻儀本国ニ送り返し可申、然レバ国本より家僕及老婆壱人、御家まで参上仕候。其間愚妻おして尊家に御養置可被遣候よふ、万々御頼申上候。拝稽首。五月八日龍馬慎蔵様左右三吉慎蔵様坂本龍馬御直披五月八日出帆時ニ認而家ニ止ム。卯 |
| 現代文 |
| この度の出崎(長崎行き)はご存知の事件(海難事故)のことなので、万一の知らせをお届けした時は、私の妻(お龍)を国元の土佐へ送り返します。その時は国元から下男と老女一人が、お宅まで迎えに参ります。その間、妻がこの家にご厄介になりますことをお頼み致します。5月8日龍馬慎蔵様(三吉慎蔵様)5月8日出向時に認める |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「今度の長崎行きは、ご存知の危険な事件がらみだ。万一、私の身に何かあったという知らせが届いたら、妻お龍を土佐へ送り返してほしい。その時は国元から迎えを寄こすので、それまでの間、妻をあなたの家に養い置いてほしい」という、我が身にもしものことがあった場合を託す、遺言のような手紙です。五月八日、出帆の際に書かれました。命の危険と隣り合わせに生きた龍馬の覚悟と、恩人への深い信頼が胸を打ちます。
宛先「三吉慎蔵」とは

三吉慎蔵は長府藩士で、寺田屋事件で龍馬を救った槍の名手です。命の恩人であり、最愛の妻を託せるほど信頼を寄せた相手でした。
この手紙が書かれたころ
危険な航海を前に、自らの死をも覚悟し、あとに残る妻の身の振り方まで手配していました。理想に生きる志士の、生々しい死の予感が漂う一通です。志士たちは常に死と隣り合わせであり、身辺の始末を整えておくことも珍しくありませんでした。龍馬の覚悟も、その時代を映しています。万一の際は妻を土佐の実家(坂本家)へ、という段取りに、龍馬と郷里とのつながりが見えます。脱藩してなお、故郷は最後の拠り所でした。
いろは丸の談判へ出帆する日、下関に書き残した頼み
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では068番「慶応三年五月八日 三吉慎蔵あて」で、年は宮地による比定です。写真の説明には「下関 長府博物館蔵」とあり、宛名のあとに「五月八日出帆時ニ認而家ニ止ム」という書き付けと、「卯」の朱印が記されています。「御存の事件」は、四月二十三日に龍馬たちのいろは丸が紀州藩の船と衝突して沈み、鞆での四日間の談判が決裂した一件のことです。
四月二十八日の手紙(宮地の064番)で龍馬は、長崎での談判について「何れ血を不見ばなるまい」と書き、出帆前日の五月七日には下関の伊藤助太夫に、留守中は親しい者でも自然堂へ通さぬよう頼む覚書を渡していました。お龍はこの年の二月に長崎から下関へ呼び寄せられ、伊藤家の自然堂で暮らしていました。龍馬の死後、三吉はお龍とその妹を引き取り、下関での暮らしを支えています。
同じころの長崎—いろは丸の談判
長崎での交渉 この手紙のあと、龍馬は長崎で紀州藩を相手に、いろは丸沈没の賠償を求める交渉に臨みました。紀州藩は御三家の威光を背に交渉に臨みましたが、龍馬は衝突のときの航海日誌や見張りの有無を突きつけ、国際的な海のきまり(万国公法)に照らして紀州側の非を主張しました。土佐藩からも後藤象二郎が交渉に加わり、話は藩と藩との問題になっていきます。
宛名の三吉慎蔵 三吉は長府藩士で、寺田屋事件のとき龍馬とともに戦った仲です。龍馬はこの交渉のさなか、万一のときにはお龍の身を三吉に託したいと頼んでいます。それほど、龍馬はこの談判を命がけのものと考えていました。
慶応三年五月、お龍を託した龍馬と坂本家
土佐の家族に妻を預ける覚悟
この手紙で龍馬は、自分に万一のことがあれば、お龍を国元の土佐へ送り返すと書いています。そのときは国元から下男と老女が迎えに来る、とまで決めていました。脱藩の罪が許され、龍馬と高知の坂本家との行き来が戻っていたからこそ書けた頼みです。兄の権平や姉の乙女が、お龍を引き受けることを承知していたことがうかがえます。
実際に土佐へ渡ったお龍
この頼みは、半年後に現実のものとなりました。慶応三年十一月、龍馬は京都で暗殺されます。三吉慎蔵はこの手紙の約束を守り、お龍と妹を長府の自宅で預かりました。翌慶応四年三月には、お龍を高知の坂本家まで送り届けています。ただし、お龍は三か月ほどで土佐を去りました。
談判に加わる後藤象二郎
龍馬がこの手紙を残して長崎へ発ったのは、いろは丸の談判のためでした。長崎の談判には、土佐藩参政の後藤象二郎も加わっています。海援隊の争いは、龍馬一人の争いではなく、土佐藩と紀州藩の争いとして扱われることになりました。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



