長岡謙吉 宛
| 原文 |
| 唯御送り─但万国公法。─難有奉存候。そして活板字がたり不申ざれバ、其不足の字ハ御手許より御頼か、又ハ伏水にて御相談、以前の板木師ニ御申付可被成下奉頼候。謹言。十一日秋山先生才谷左右 |
| 現代文 |
| 万国公法を送って頂きまして、ありがとうございます。活板字(活版印刷)が足りなければ不足の文字はそちらで頼むか、または、伏見で相談し、以前の板木師(木版印刷をする人)にお申し付け下さい。11日秋山先生才谷(龍馬の変名)※海援隊では万国公法を出版しようとしていた。 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「万国公法を送ってくれて感謝します。活版の活字が足りなければ、そちらで頼むか、伏見で相談して以前の板木師に申し付けてほしい」と、出版の実務を相談する手紙です。海援隊は長崎で万国公法(国際法)などの出版を試みていました。十一日付、龍馬の変名「才谷」。刀や船だけでなく、印刷にまで関心を広げる龍馬らしい一通です。
宛先「長岡謙吉」とは

長岡謙吉(ながおか けんきち)は土佐出身の医者・学者で、海援隊の文筆を担った人物です。「船中八策」をはじめ海援隊の文書の起草や清書に関わったとされ、龍馬の死後は海援隊の隊長をつとめました。知性で龍馬を支えた右腕でした。
この手紙が書かれたころ
海援隊は交易や海運だけでなく、書物の出版や語学の普及といった啓蒙事業にも取り組んでいました。龍馬は「知識の力」を重んじていたのです。開国により、国際法である万国公法の知識が外交や紛争処理で重みを増していました。海援隊はその普及を先駆的に試みていました。長岡謙吉のように、土佐出身の知識人が海援隊に集いました。彼らはやがて近代日本の学問や行政の礎を築いていきます。
宮地は宛名を「秋山某」としています
このページは長岡謙吉宛としていますが、宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの一通を「慶応三年五月十一日 秋山某あて」としていて、長岡謙吉とはしていません。文中の「秋山先生」を長岡謙吉の変名とする典拠も、こちらでは見つけられませんでした。宛名の扱いには留保が要ります。原本は大洗町の幕末と明治の博物館の所蔵とされます。
中身ははっきりしています。万国公法を送ってもらった礼を述べ、活字が足りなければそちらで頼むか、伏見で相談して以前の版木師に頼んでほしいと書いています。国際法の書物である万国公法を、印刷して刷ろうとしていたわけです。日付の五月十一日は、四月二十三日に伊呂波丸が沈み、十五日から長崎で紀州藩との談判が始まる直前にあたります。龍馬が談判で「万国公法」を持ち出したと語られてきたのは、この時期の話です。ただし近年の研究は、実際に示されたのは国際法そのものではなく外国人から聴き取った意見だったとしています。
同じころの日本—兵庫開港をめぐって
世の中では 兵庫(神戸)の開港は、安政の通商条約で決められながら、朝廷の反対で延ばされ続けてきた問題でした。約束の期限は西暦1868年1月1日(慶応三年十二月七日)に迫っており、イギリス公使パークスらは幕府に約束を守るよう強く求めていました。将軍慶喜はこの五月、京都で開港の勅許を得るために粘り強く朝廷に働きかけていました。
宛名の長岡謙吉 長岡謙吉は土佐の医者の家に生まれ、海援隊で文書を担った人物です。翌月、龍馬が長崎から京都へ向かう船の中で、新しい国のかたちを八か条にまとめた「船中八策」を書き取ったのも、長岡だったと伝えられます。
慶応三年五月、海援隊と万国公法
万国公法の出版
『万国公法』は、アメリカの法学者ホイートンの国際法の書物を、中国で漢文に訳したものです。日本でも慶応元年に翻刻されて、幕末の志士たちに読まれました。龍馬はこの書物を重んじ、海援隊で出版しようとしていました。この手紙は、その印刷の手配について書いたものです。
談判の武器になった公法
この手紙のころ、龍馬はいろは丸事件の談判のさなかにありました。船を沈められた海援隊は、相手の紀州藩に償いを求めています。龍馬は、船どうしの衝突の責任を国際的な決まりに照らして問いました。万国公法の考え方は、ここでも龍馬の大きな支えになりました。
中岡慎太郎と陸援隊
同じころ、龍馬の同志・中岡慎太郎は、京都で討幕の準備に動いていました。中岡は、海の海援隊に対して陸の「陸援隊」を率いることになります。陸援隊の結成は、五月二十五日とも、七月とも伝わります。土佐の脱藩浪士だった二人は、ともに土佐藩の後ろ盾を得て、それぞれの隊を率いることになりました。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



