伊藤助太夫 宛(慶応三年五月七日・81通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

伊藤助太夫 宛

原文
─追白、御案内の通り此度長崎ニ出候得バ、いかゞ相成候や不被計候得バ、左の覚さし舌代出し置き候。─一、兼而私ら両人の所ハ三印両兄聞取ニ相成、御家に止宿御頼申候事故、私両人生活の一事ハ一切上の両兄に御引合可被遣候。一、私方物好ニて他人呼入候て、費用在之分ハ、一切私方よりさし出し申候。─但月末々ニ算用相立候。─もし又私方心付不申分ハ、御台所奉行より書付御さしこし可被遣候よふ御頼申上候。且又、私方洗濯女など雇入候時ハ、其ノ飯料ハ通常旅人宿の時の相場の下等成方ニ算用仕度、此儀御役人中ニも御達可被遣候。以上。五月七日龍好茶翁先生机下
現代文
追伸。ご存じのとおり、このたび長崎へ出かけますが、どうなるか分かりませんので、次の覚え書きを書き置いておきます。
一、かねてから私たち夫婦のことは三吉慎蔵・印藤聿のお二人が引き受けてくださり、お宅に泊めていただくようお願いしてあることですので、私たち二人の暮らしのことは、すべてこのお二人と話し合ってください。
一、私のほうで物好きに人を呼び入れて費用がかかった分は、すべて私のほうからお出しします(ただし月末ごとに勘定します)。もし私のほうで気づかない分があれば、お台所の係から書付を回してくださるようお願いします。また、私のほうで洗濯女などを雇い入れたときは、その食事代は普通の旅人宿の相場の安いほうで勘定したいので、このことは家中の方々にもお伝えください。以上。
五月七日 龍(朱印)
好茶翁先生(伊藤助太夫)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

下関の伊藤助太夫へ宛てた手紙で、長崎へ向かうにあたっての段取りを頼んでいます。自分と妻お龍のことは三吉慎蔵・印藤聿の二人が引き受けてくれているので、暮らしのことはすべてその二人と話し合ってほしいこと、自分が人を呼んでかかった費用は自分が持つことなどを、こまやかに記しています。長崎へ発つ間、妻を下関に託していく龍馬の心配りが伝わる一通です。

宛先「伊藤助太夫」とはどんな人物か

伊藤助太夫
坂本龍馬(左)と伊藤助太夫(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

下関の豪商で、龍馬と妻お龍が身を寄せた宿の主人です。龍馬が長崎などへ出るあいだ、お龍の暮らしを託せるほど深く信頼していた協力者でした。

この手紙が書かれたころ

海援隊の活動で長崎と下関を行き来していたころの龍馬です。妻を安心して預けられる人の縁に支えられながら、天下の事に専念することができました。倒幕へ向けて志士たちの往来がいっそう活発になり、下関や長崎は人と情報の集まる要地となっていました。各地に信頼できる拠点を持つことが、活動の鍵でした。土佐藩公認の海援隊を率いる龍馬は、長崎を舞台に海運と交易を本格化させていました。下関の協力者たちが、その活動を陰で支え続けていました。

いろは丸事件の談判へ発つ前日に残した覚え書き

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では「慶応三年五月七日 伊藤助太夫あて」(六十七番)です。本文の日付は「五月七日」で、慶応三年とするのは宮地による比定です。同じ日付の伊藤あてがもう一通(六十六番)あり、「此度の出崎ハ、非常の事件在之候ニ付」として、留守中は親しい友でも自然堂まで通さないよう頼んでいます。「非常の事件」は、四月二十三日に海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸とぶつかって沈んだ一件で、鞆の浦での四日間の談判は決裂していました。

翌日の三吉慎蔵あて(六十八番)で龍馬は、万一の知らせを送ったときは妻を土佐へ帰すので、迎えの者が着くまで三吉の家で預かってほしいと頼み、「五月八日出帆時ニ認」と書き添えています。命の保証もない談判に向かう覚悟が、二通の覚え書きの細かさに表れています。談判は長崎で続き、龍馬は紀州藩から多額の賠償を得ることになります。

同じころの長崎—「金を取らずに国を取る」

長崎の町では いろは丸の談判が始まった慶応三年(1867)五月、長崎の町では「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という歌がはやったと伝えられます。紀州藩を当てこすったこの歌は、龍馬たちが世の中を味方につけるために広めたものともいわれます。御三家を相手にした交渉で、龍馬は世論の力も使おうとしていたのです。

下関の伊藤家 下関の伊藤助太夫に宛てたこの手紙のころ、お龍は伊藤家の「自然堂」に暮らしていました。長崎で談判に臨む龍馬にとって、下関は家族を託す大切な場所でした。

いろは丸という船と、談判へ向かう龍馬

大洲藩から借りた蒸気船

いろは丸は、伊予の大洲藩が持っていた小型の蒸気船で、海援隊が借り受けて動かしていました。龍馬にとっては、海援隊として初めて自分たちの手で動かす船の一つです。その船が四月二十三日、紀州藩の大型の蒸気船・明光丸とぶつかって沈みました。積荷も失い、海援隊は発足からわずかひと月で大きな借りを背負うことになります。

覚え書きに込めた備え

この手紙で龍馬は、自分たち夫婦の暮らしは三吉慎蔵と印藤聿が引き受けてくれることになっている、と書き残しています。御三家の紀州藩を相手にした談判は、どのような結末になるか分かりませんでした。龍馬は長崎へ発つ前日、身の回りのことを細かく決め、下関の伊藤家と長府藩の友人たちに後を託しています。

談判の行方

長崎での談判は五月十五日に始まり、土佐藩参政の後藤象二郎も加わりました。薩摩藩の五代才助の仲立ちもあって、紀州藩は償いを支払うことを認めます。額は八万三千両余りとされ、のちに減額されて七万両となりました。龍馬の備えは、結果として使われることはありませんでした。

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