渡辺昇 宛
| 原文 |
| 渡辺先生才谷御報御書拝見仕候。然ニ肥後進前にて明朝までまい里居候。扨、唯今承り候得バ勝先生近日に、長州よりかへりて肥後へ参り候よふすいまだたしかにハ候ハねども、先は御聞に入候。頓首々十八日龍 |
| 現代文 |
| 渡辺先生才谷より(龍馬の変名)お知らせ長崎の薩摩藩邸に明朝まで滞在します。近々聞いた話では、勝先生(勝海舟)は近日長州から帰る途中で肥後(熊本藩)へ寄る様子はたしかにはわからないが、わかれば教えます。18日龍馬※渡辺昇(大村藩士:勤皇派) |
目次
この手紙について
「長崎の薩摩藩邸に明朝まで滞在します。勝海舟先生が長州から帰る途中で肥後(熊本)へ寄るらしい」と、要人の動向を知らせる手紙です。十八日付。師・勝海舟の動きを気にかけていることから、龍馬が勝の門下として海軍や政局に関わっていた元治から慶応初めごろのものとみられます。
宛先「渡辺昇」とは
渡辺昇(わたなべ のぼり)は大村藩士で勤皇派の志士です。神道無念流の剣客として練兵館の塾頭をつとめた腕前で知られ、薩摩と諸藩の間を周旋しました。維新後は各県の知事など要職を歴任しています。
この手紙が書かれたころの龍馬の境遇
勝海舟の下で海軍を学び、薩摩藩とも通じていた時期です。長崎の薩摩藩邸に泊まりながら、要人の動向を追って情報を交換していました。
幕末全体の動き(元治〜慶応初)
開明派の勝海舟が海軍の近代化を進める一方、幕府内では攘夷と開国の対立が続いていました。要人の一挙一動が政局を左右する時期でした。
土佐藩の当時の動き
土佐藩では勤王党への弾圧が進み、脱藩の龍馬は勝海舟の庇護のもとで活動していました。藩を離れて中央の政局に飛び込んでいた頃です。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

