吉井友実 宛
| 原文 |
| 一筆啓上仕候。益御安泰愛出度存候。偖先年来、御尽力被下候段、忝存候。則吾ガ為メニ尽候所、則、国家ニ尽ス所タルヤ明カナリ。仍而何か為酬之、吾所蔵致候、旧赤穂ノ家臣神崎則休遺刀無銘一口貴兄進上致候。御受領被下度候。右刀ハ曽而後藤も来国光と鑑識致候。御高鑒被下度候。先ハ右用向迄如此候。早々。十月五日直柔吉井幸輔様 |
| 現代文 |
| 一筆書きます。ますますご安泰のようでめでたく思います。さて、先年来力になってくれている件はありがとうございます。私のために尽くしてくれることは、即、国家の為にすることと同じです。よって、それに報いますね。これは旧赤穂の家臣神崎則休(神崎与五郎)が残した無銘の名刀で、これを貴方に差し上げます。是非お受け取り下さい。この刀は、かつて後藤も来国光と鑑定しました。※この「後藤」が誰かは確かめられていません。龍馬が後藤象二郎と初めて会うのは翌慶応三年の正月とされるため、象二郎とは考えにくいところです。これをお受け取り下さい。まずは、この御用向きまで。10月5日直柔(龍馬の変名)吉井幸輔様 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「先年来のご尽力に感謝しています。私のために尽くしてくれることは、そのまま国家のために尽くすことだ。お礼に、私が所蔵する、旧赤穂の家臣・神崎与五郎(則休)が遺した無銘の名刀を差し上げたい。この刀は、かつて「後藤」も来国光と鑑定したものです(この後藤が誰かは分かっていません)。ぜひお受け取りを」という、名刀を贈る手紙です。十月五日付、本名「直柔」。赤穂義士ゆかりの刀を薩摩の要人に贈るという、話題の豊かな一通です。
宛先「吉井友実(吉井幸輔)」とは

吉井友実(よしい ともざね/幸輔)は薩摩藩士で、西郷隆盛や大久保利通に近い立場にありました。龍馬と薩摩を結ぶうえで欠かせない、大切な協力者でした。
この手紙が書かれたころ
薩摩の後ろ盾なくして、龍馬の活動は成り立ちませんでした。恩義に名刀で報いるところに、龍馬の律儀さと、人づきあいの妙が表れています。龍馬にとって薩摩との信頼関係は、まさに生命線でした。吉井のような実務家との縁が、薩長同盟や海援隊の活動を陰で支えていました。刀の鑑定を添えて贈るところに、刀を愛した龍馬らしさがうかがえます。土佐・薩摩の結びつきが、龍馬を通じて深まっていました。
寺田屋の夜に駆けつけた吉井への返礼
手紙の日付は「十月五日」だけで、宮地佐一郎は『龍馬の手紙』でこれを三十八番「慶応二年十月五日 吉井友実あて」として収め、慶応二年と比定しています。「先年来の御尽力」が何を指すかは文中に書かれていませんが、同じ年の十二月に龍馬が兄へ送った四十二番の手紙には、一月の寺田屋遭難のあと、京の薩摩藩邸で留守居をつとめていた吉井幸輔が馬に乗り、六十人ほどの藩士を率いて伏見まで迎えに来たことが記されています。姉あての四十四番では、吉井が鹿児島への船に同行し、温泉にも誘ってくれたと書いています。
宮地の本文では、刀についての結びは「御高鑒被下度候」で、「どうぞご鑑定ください」という意味になります。かつて後藤が来国光と見立てた刀を、吉井自身の目でも確かめてほしいと添えたわけです。四十四番によると、龍馬は長州での戦いを終えて八月十五日に再び長崎へ出ており、比定どおりなら、この贈り物はその後の時期にあたります。
同じころの鹿児島—パークスの訪問
鹿児島では 慶応二年(1866)の夏、イギリス公使パークスは軍艦で鹿児島を訪れ、島津久光・忠義の父子から盛大なもてなしを受けました。三年前の薩英戦争で砲火を交えた両者は、その後急速に近づき、薩摩は留学生をイギリスへ送り、イギリスは薩摩の力に期待を寄せるようになっていました。
宛名の吉井友実 吉井友実は薩摩藩士で、龍馬とは寺田屋事件のあとにもかかわりの深い人物です。四境戦争が休戦となったこの秋、龍馬は薩摩の吉井らと連絡を取りながら、亀山社中の今後の仕事を考えていました。
慶応二年十月、薩摩の吉井友実と龍馬
寺田屋の夜の恩人
宛先の吉井友実(幸輔)は薩摩藩士で、西郷隆盛や大久保利通の盟友です。慶応二年一月二十三日、伏見の寺田屋で襲われた龍馬は、手に深い傷を負いながら材木小屋に身を潜めました。知らせを受けて京都から兵を連れて駆けつけ、龍馬を京都の薩摩藩邸へ移すのにかかわったのが吉井です。赤穂浪士・神崎則休ゆかりの刀を贈るこの手紙は、その恩への返礼でした。
薩摩に支えられた社中
このころの亀山社中は、薩摩藩の庇護を受けて船を動かしていました。五月にワイルウェフ号を失い、苦しい状態が続いていましたが、薩摩藩の名義で長州のために船や武器を手配する仕事は続いています。龍馬が吉井に「私のために尽くすことは国家のために尽くすのと同じ」と書いているのは、薩摩と長州を結ぶ自分の仕事への自負の表れでしょう。
土佐藩はまだ遠く
この年の土佐藩は、まだ幕府寄りの立場を変えていませんでした。参政の後藤象二郎が長崎や上海に出張し、船と武器の買い付けを進めていたものの、脱藩浪士の龍馬と土佐藩が手を結ぶのは、翌年の一月を待たなければなりません。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



