渋谷彦介 宛

渋谷彦介 宛

原文
〇坂本龍馬ヨリ渋谷彦助へー将軍上洛ノ件薩州御藩渋谷彦助様坂本龍馬足下 〆二白、本文ニ土方楠左ハ国本より出候もの〃内ニハ一寄咄合て遣候ものニて候よし、時情も存候ものなり。以後御引合在之候時ハ必此者がよろしく候、かしこ。其後益御安泰奉大賀候。然バ此度土方楠左衛門上国より下り候。此者の咄、将軍家曽て伝聞の通り既ニ発足。東海道通行軍旅候て、人数五万と申事のよし、一件に付岩下左兄早々蒸気船を以て御国許ニ帰られ、今月十日頃ニハ西吉兄及小大夫など御同伴のよし承り候、夫ニ付てハ私よりハ書状ハ御国ヘハ出し不申、兎も角も御老の上雅兄よろしく土方楠左より長及時勢被聞取の上久ハ敷御国ニ御伝ヘ可被下候、先ハ早々謹白候。末五月五日龍馬渋彦大人足下追々来五月六日桂小五郎山口より参り面会仕候所、惣方長州の論とハかわり余程大丈夫ニてたのもしく存候。当時小五郎ハ大ニ用られ国論なとも取定候事書出候よしニて、ともに々よろこび候事ニ御座候、かしこ
現代文
坂本龍馬から渋谷彦助へ将軍上洛の件薩摩藩渋谷彦助様坂本龍馬追伸土方楠左衛門久元は土佐より出てきたものですでに打ち合わせをしており事情も存じております。以後お会いした際は土方のことも宜しくお願い致します。ますますご安泰のようで大変目出たいと思います。この度土方楠左衛門久元は京都よりそちらへ向かいました。この者の話では、将軍家はかつての伝聞の通りすでに出発しました。東海道通行の行軍にて、人数は5万人とのことです。岩下左次右衛門方平は早々に蒸気船で薩摩に帰られ今月10日頃には西郷吉之助、及び小松帯刀などが上京するので、私からの手紙はお国へは送りません。とにかく、お考えの上、渋谷彦助どのには宜しく、土方楠左衛門久元より長州及び時世について詳しくお聞きの上御国元へお伝え下さいませ。まずは早々にお願いします。5月5日龍馬渋谷彦助様追伸5月6日、桂小五郎が山口から来て面会しました。これまでの長州の議論とは違って、よほどしっかりしていて頼もしく思いました。当時、桂小五郎は大いに用いられ国論なども取りまとめているので、ともに喜ばしいことです。

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

薩摩藩の渋谷彦介へ宛てた手紙で、将軍の上洛に関する情報を伝えています。将軍家がすでに江戸を発ち、東海道を五万もの人数で上洛する途上にあることを報じ、あわせて土佐出身の同志・土方久元を引き合わせ、以後の便宜を頼んでいます。藩を越えて情報と人を結ぶ、龍馬の周旋家としての動きがよくわかる一通です。

宛先「渋谷彦介」とはどんな人物か

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

薩摩藩の関係者で、龍馬が政情を伝え合った相手です。のちに薩摩と深く結んでいく龍馬にとって、こうした薩摩藩士との早い時期からのつながりは、大きな意味を持ちました。

この手紙が書かれたころ

諸藩の情報を集め、人と人とを取り次ぐ役回りを担いはじめていたころの龍馬です。剣客でも一介の浪士でもなく、時勢を動かす情報のただ中に身を置く存在になりつつありました。この年、将軍徳川家茂は長州再征のため五月十六日に江戸を発ち、再び西上しました。幕府の権威が大きく揺らぎ、朝廷の発言力が急速に高まった、政局の転換期でした。土佐では勤王党への弾圧が続き、閏五月十一日には武市半平太が切腹しました。土方久元のように、藩を離れて京や諸藩で活動する土佐者が増え、龍馬もその一人として動いていました。

家茂進発の報と、桂小五郎との面会、閏五月五日の薩摩あて通信

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では、この手紙は第十五番「慶応元年閏五月五日 渋谷彦介あて」です。本文の日付は「五月五日」とだけあり、年と閏月は宮地の比定によります。原本は個人蔵で、鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託されていると底本に注記があります。慶応元年、将軍徳川家茂は長州再征のため五月十六日に江戸を発っており、龍馬が伝える「既ニ発足」「人数五万」という話は、この進発の報にあたります。

龍馬はこの報せを、上方から下ってきた土佐出身の土方楠左衛門の口から聞き、自分からは薩摩の国元へ手紙を出さず、渋谷を通じて伝えてほしいと頼んでいます。追伸では、山口から来た桂小五郎と面会し、これまでの長州の議論とは違って「余程大丈夫」で頼もしいと記しました。桂がいま藩で大いに用いられ、国論の取りまとめにも関わっていることを、ともに喜ぶべきこととして書き添えています。この直後の閏五月十一日、土佐では土佐勤王党を率いた武市半平太が切腹しています。

同じころの下関—西郷の「すっぽかし」

下関では 慶応元年(1865)閏五月、龍馬は薩摩から下関に入り、長州の桂小五郎と会いました。中岡慎太郎は薩摩の西郷隆盛を下関に連れてきて、桂と会わせる段取りを進めていました。ところが閏五月二十一日、西郷は京都へ急ぐ必要があるとして下関に寄らずに通り過ぎてしまいます。桂は激しく怒り、薩長の和解は一度振り出しに戻りかけました。

その後 この失敗を取り返すため、龍馬と中岡は、薩摩の名義で長州が外国から武器や船を買えるようにすることを提案します。長州にとって実利のあるこの取り引きが、翌年の薩長同盟への道を開くことになりました。

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