池内蔵太宛

池内蔵太宛

原文
其後ハ御物遠奉存候。昨日頃より御風気ニ御引籠のよし御大事可被成、奉存候。然ニ拙儀御国の無余儀方に文通し申度、独兄ならでハ不叶事拝顔仕度奉存候。彼海軍士官被仰付候者も、大坂表ニて被仰付候時ハ拙者、急々下坂仕らねバ彼者とよる所を不知と申事ニ相成申候。早々御聞合可被下候。頓首。廿二日直陰池内蔵太様濤次郎
現代文
ご無沙汰しております。昨日からお風邪などを引いているようですが、大事に至らないようにして下さい。どうしようもないこの国のことで手紙のやり取りをするたびに、貴方にも会いたいと思ってます。大阪の役所からの命令が出れば早々に大阪を離れなければならない。そうなれば行く場所のあてもないので、早々にお聞きしてみて下さい。(神戸の海軍操練所が廃止されて途方にくれる海軍塾生徒の行き先の場所を探していると考える)22日直陰(龍馬の実名)池内蔵太様濤次郎(龍馬の変名)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「ご無沙汰しています。昨日から風邪で引きこもっているとのこと、大事にしてほしい。どうにもならぬこの国のことで手紙をやり取りするたび、あなたに会いたくなります。海軍士官を命じられた者も、大坂の役所から命令が出れば急いで大坂を離れねばならず、そうなれば行く先のあてもありません。早く問い合わせてほしい」という手紙です。二十二日付、本名「直陰」、初めて用いた変名「濤次郎(とうじろう)」の署名。神戸海軍操練所が閉鎖され、行き場を失った塾生たちの身の振り方を案じる、切実な一通とみられます。

宛先「池内蔵太」とは

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

池内蔵太(いけ くらた)は土佐出身の志士で、文久三年に脱藩して長州の外国船砲撃や天誅組の挙兵、禁門の変に加わり、慶応元年に下関で龍馬と会ってから亀山社中で行動を共にした同志です。勇猛で知られましたが、のちに船の遭難で若くして世を去りました。

この手紙が書かれたころ

頼みの綱だった神戸海軍操練所が閉鎖に追い込まれ、龍馬自身も行き場を失いつつありました。仲間の身を案じながら、次の道を模索していた苦境の時期です。元治元年末、幕府は開明派の勝海舟を罷免し、神戸海軍操練所を閉鎖しました。志を抱いた多くの塾生が、行き場を失って路頭に迷いました。行き場を失った龍馬と土佐の同志たちは、やがて薩摩の庇護を受けて長崎で亀山社中を興し、海援隊へと発展させていきます。この苦境こそ、次の飛躍の出発点でした。

下関での再会と「濤次郎」の署名

宮地佐一郎はこの手紙を「続」の四番目に収め、慶応元年夏の二十二日と推定しています。手紙にあるのは「廿二日」だけで、年と季節は宮地の推定によります。底本の写真説明には高知県立歴史民俗資料館の所蔵とあり、宛名は「池蔵太」と一字抜けた形で書かれていて、宮地は「ママ」と注記しています。

高知県立坂本龍馬記念館によると、池内蔵太は文久三年五月に脱藩し、長州の外国船砲撃、天誅組の挙兵、禁門の変と戦場を渡り歩いたのち、慶応元年に下関で龍馬と会ってから亀山社中に加わりました。宮地が慶応元年九月九日とする池の家族宛の手紙には、下関でふいに再会して手を打って笑い合い、「つまらぬ事にて死まい」と固く約束したことが書かれています。宮地の推定どおりなら、風邪で引きこもる池を気づかうこの一通は、その再会からまもないころのものになります。

同じころの長崎—グラバーと亀山社中

長崎では 慶応元年(1865)の夏ごろ、龍馬と仲間たちは長崎の亀山に拠点を置きました。のちに亀山社中と呼ばれる組織です。長崎には、スコットランド出身の商人トーマス・グラバーの商会があり、薩摩や長州は、グラバーを通じて武器や蒸気船を買い入れていました。社中の仕事は、こうした取り引きの仲立ちと船の運用でした。

池内蔵太のこと 宛名の池内蔵太は、龍馬と同じ土佐の脱藩浪士で、天誅組や禁門の変にも加わった人物です。この年、亀山社中に加わりましたが、翌年五月、社中の船ワイル・ウエフ号が五島の沖で沈んだとき、命を落としました。

慶応元年夏、龍馬と土佐・坂本家

行き場を失ったあとの龍馬

神戸海軍操練所が閉じられた慶応元年の春、龍馬と土佐の仲間たちは薩摩藩の庇護を受けました。龍馬は五月に鹿児島へ渡り、その後、長崎の亀山に拠点を置きます。のちに亀山社中と呼ばれる集まりです。閏五月には下関で長州の木戸孝允と会い、薩摩と長州を結ぶ話を進めました。池内蔵太と下関で再会したのは、こうして龍馬が長州と薩摩の間を行き来し始めたころでした。

武市半平太の切腹

同じ閏五月の十一日、土佐では、勤王党を率いた武市半平太が切腹を命じられました。前々年の九月に投獄されてから、およそ一年九か月ののちのことです。龍馬や池内蔵太のように土佐を出た者にとっては、帰る場所がいっそう遠のく知らせでした。土佐藩は山内容堂のもとで、なお幕府を支える立場を取っていました。

高知で生まれた姪の娘

この慶応元年、高知の坂本家では、姪の春猪が次女の兎美を産んでいます。前の年には長女の鶴井が生まれていました。脱藩から三年、龍馬が土佐を離れているあいだに、坂本家には新しい家族が増えていました。

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