| 上坂甲太郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 近江彦根 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 離隊 | ||
元治元年に入隊しました。
鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し離隊します。
以後の消息は不明です。

上坂甲太郎をもっと深く—井伊の城下から来て、江戸で隊を離れた
出身は近江彦根。彦根藩の城下です。
桜田門外の四年後に入隊しています
入隊は元治元年(1864年)。池田屋事件と禁門の変があった年です。新選組がその名を天下に知られた、まさにその年に加わりました。
そして彦根といえば、その四年前の安政七年三月三日、藩主・井伊直弼が桜田門外で水戸浪士に討たれています。城下は主君を暗殺された衝撃の中にありました。
幕府を支えてきた井伊家の城下から出て、京都で幕府方の治安部隊に入る—この人の選択には、そういう背景がありそうです。ただし、そう書いてある史料があるわけではありません。あくまで時期の重なりです。
彦根藩は、二年後に負けます
慶応二年の第二次長州征討で、彦根藩は高田藩とともに芸州口の先鋒を命じられ、小瀬川で壊滅しました。敗因は旧式の軍装だったとされます。井伊の赤備えと榊原の兵—徳川四天王の家が二つ並んで、長州の近代化された部隊に破られました。
そして戊辰では、その彦根藩が官軍として東へ進みます。
鳥羽伏見のあと、江戸で離れました
上坂甲太郎は鳥羽・伏見の戦いを経て江戸へ帰還し、そこで離隊しています。以後の消息は分かっていません。
鳥羽伏見の敗戦後、新選組は江戸へ引き揚げました。ここで多くの隊士が去っています。京都の治安を守る部隊として入った人にとって、京都を失った時点で入隊の理由が消えたからでしょう。
故郷の彦根藩が官軍になり、自分のいる隊が賊軍になった。この人が江戸で離れた気持ちを推し量る材料はありませんが、そういう位置に立たされていたことだけは確かです。
新選組隊士全456名情報
この名前は、読み方すら定まっていません
ここから先は、調べてみて分からなかったことを書きます。「上坂甲太郎」という名前を隊士名簿の類で探したのですが、見つけられませんでした。唯一それらしい記載が一件あり、そこでは「上板甲太郎」と書かれたうえ、加納鷲雄と神代仁之助のあいだ、つまり「か」の欄に置かれています。その名簿を作った人は、この名を「かみいた」あるいは「かみさか」と読んだことになります。
似た名前が、別のところにもあります
慶応三年六月の幕臣取立の名簿には「上坂早太郎」という名が見えます。甲太郎と早太郎、字は一つ違いです。同じ人なのか別人なのかを決める手がかりがありません。隊士の名は、写し間違いと変名と表記揺れが積み重なって、一字違いの別人が生まれたり、二人が一人にまとめられたりしてきました。その事情は幕末の新選組、隊士名簿はなぜ食い違うのかに書いたとおりです。
表に書いてあることの出どころも、たどれませんでした
上の表には近江彦根の出身、元治元年に入隊、鳥羽・伏見を経て江戸で離隊と記してありますが、この内容がどの資料に拠っているのかは見つかっていません。裏づけが取れていない、というのが今の状態です。板橋の新選組供養塔にも、この名は刻まれていません。それでもページを消さずに残しておくのは、石川伊乃助のときと同じ考えによるもので、確かめられないからといって名前ごと消してしまうと、あとから裏づけが出てきたときに拾いようがなくなるからです。分からないことは分からないと書いて、そのまま置いておきます。
上坂甲太郎の生きた時代—近江彦根藩の転向
井伊家の藩 上坂甲太郎は近江の彦根藩(井伊家)の出身です。彦根藩は大老・井伊直弼を出した譜代筆頭の藩でしたが、桜田門外の変のあと、領地を十万石削られるなど幕府から冷たい扱いを受けました。慶応二年(1866)の第二次長州征討では芸州口で戦いましたが、長州軍に敗れています。
新政府の側へ そうした経緯もあって、彦根藩は鳥羽伏見の戦いでは新政府側に立ち、戊辰戦争では新政府軍の一員として戦いました。徳川家の最も近くにいた藩の一つが、真っ先に幕府を離れたのです。上坂は鳥羽伏見の戦いのあと、江戸へ帰ってから隊を離れています。
元治元年、上坂甲太郎が入ったころの新選組
池田屋と禁門の変の年
上坂甲太郎が加わった元治元年は、新選組の名が京都中に知れ渡った年です。六月五日の池田屋事件では、近藤勇と土方歳三らが二手、井上源三郎の隊も加えて三手に分かれて市中を探索し、尊攘派の志士たちを斬り、また捕らえました。このときの隊士はおよそ五十人で、そのうえ病人も多かったとされます。七月十九日の禁門の変でも、新選組は会津藩とともに出動しています。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 総長:山南敬助
- 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一 ほか
- 参謀:伊東甲子太郎(この年の秋に加盟)
大きくなる隊
池田屋での働きで名を上げた新選組には、入隊を望む者が集まりました。この年の秋には近藤勇が江戸へ下って隊士を募り、伊東甲子太郎らの一団を迎えています。翌慶応元年には、総勢がおよそ二百人に達したとされます。上坂は、隊が小さな集まりから大きな組織へと変わっていく、その入口に立ち会った隊士でした。
参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:印具馬作(函館新選組)
次の隊士 ▶:上田安達之助(函館新選組第一分隊)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



