印具馬作【新選組隊士 函館新選組 幕末】

印具馬作
職名 函館新選組
出身 唐津藩士
終焉場所 唐津
終焉方法 病没

慶応四年9月に仙台にて入隊する唐津藩士。しかし蝦夷渡航後の隊士としての詳細や降伏場所などは不明です。明治元年10月に唐津藩主嗣子三好ゆたかが戦死するとその相手を探し出し見事にあだ討ちをしました。
放免後生国である唐津藩に引渡されてやがて赦免。
その後親戚の帆足家の跡取となり明治三十三年に没しました。

会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)
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印具馬作をもっと深く—降伏したあとに、主家の仇を討った男

この人の経歴には、幕末の隊士としては例外的な一行があります。仇討ちを果たしています。

慶応四年九月、仙台で新選組に入隊した唐津藩士です。蝦夷地へ渡ったあとの隊士としての詳細は分かっておらず、どこで降伏したのかも記録がありません。

唐津藩主の嗣子が戦死した

明治元年十月、唐津藩主の嗣子が戦死します。印具馬作はその相手を探し出し、討ち果たしました。

時期に注目したい。明治元年十月といえば、榎本艦隊が蝦夷地に上陸した直後です。戊辰戦争はまだ続いていたが、すでに大勢は決していました。新しい時代が始まろうとしている只中で、この人は主家のために仇を討つという、まったく旧い作法の行動を取っています。

放免され、家を継ぎ、明治を生きた

放免されたのち、生国である唐津藩に引き渡され、やがて赦免されました。そして親戚の帆足家の跡取りとなり、明治三十三年に没しています。

ここが印具馬作という人の面白いところです。多くの函館新選組の隊士は「以後の消息は不明」で終わります。青山次郎も、明石覚四郎も、五十嵐伊織もそうだ。ところがこの人だけは、その後三十年を生きた記録が残っています。

仙台で膨らんだ隊

そもそも唐津の武士がなぜ新選組にいたのか。慶応四年秋、仙台に集まった旧幕府勢力のなかで、蝦夷地へ渡る船の定員から漏れた藩士たちが、人数を減らしていた新選組に加わったという事情があります。唐津のほか桑名藩、備中松山藩の藩士も同様に入隊しました。

弁天台場に籠もった新選組は、明治二年五月十五日に降伏します。土方歳三が救援に向かう途中で戦死した四日後でした。

仇討ちをして、赦されて、家を継いで、明治三十三年まで生きます。幕末を最後まで戦った人間の「その後」として、これほど旧い形と新しい形が同居している例も珍しい。

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JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)

唐津から来た隊士は、この人だけではありません

慶応四年九月に仙台で入隊した唐津藩士—という経歴を持つ隊士が、当サイトにはほかにも二人います。明石覚四郎と天野十郎です。三人とも同じ月に仙台で隊へ入り、三人とも蝦夷地へ渡りました。ばらばらに志願したのではなく、一つの事情から生まれた一団だったからです。

船に乗るための入隊でした

幕府の老中でありながら将軍に従わず江戸を脱した小笠原長行は、唐津藩主の家の人です。その長行に随行して江戸を出た家臣たちが、仙台までは付いていきました。ところが榎本武揚は艦に乗せる人数を絞っていて、このままでは同行できません。そこで新選組へ入隊するという形をとり、隊士として船に乗りました。九月十七日には桑名藩の十七人が、十九日には松山藩と唐津藩の藩士が同じやり方で入っています。土方歳三の側からすれば、母成峠と仙台で人を減らした隊に、まとまった数の武士が加わったことになります。

同じ一団の、三つの結末

三人の行き着いた先は少しずつ違います。明石覚四郎は十月二十四日の七重村の戦いで肩を撃たれ、天野十郎は同じ日に首を撃たれ、どちらも弁天台場で降伏して唐津へ帰されました。天野はその後、大正十一年まで生きています。印具馬作もまた降伏し、放免されて家を継ぎ、明治を生きました。同じ船に乗った唐津の一団は、そろって生き延びたことになります。京にいたころの新選組が次々に人を失ったのと比べると、ずいぶん違う結末です。もっとも、この人たちが隊にいたのは半年ほどで、隊の名を借りて主君についていった人たちでした。

箱館での新選組と、そこにいた隊士たちについては、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。

印具馬作の生きた時代—唐津藩の二つの道

藩と世子 印具馬作は唐津藩の出身です。戊辰戦争のとき、唐津藩は二つに分かれました。藩主の小笠原長国は新政府に恭順しましたが、世子で幕府の老中だった小笠原長行は、旧幕府側に立って奥羽、さらに箱館へと渡ったのです。

箱館の唐津藩士 長行に従った唐津藩士の中には、箱館で新選組に加わった者がいました。印具もその一人で、降伏後は唐津藩に引き渡されて許され、明治三十三年に亡くなっています。故郷の藩が新政府に従うなかで、旧主の世子に従って北の果てまで渡った人々でした。

仙台で加わった隊士と、京都以来の幹部の行方

仙台での入隊

印具馬作が新選組に加わったのは、慶応四年九月、仙台でのことです。会津での戦いに敗れた旧幕府軍は仙台に集まり、榎本武揚の艦隊に乗って蝦夷地へ渡ろうとしていました。土方歳三はここで隊士を補い、唐津藩士や桑名藩士、仙台で加わった者たちとともに北へ向かいます。印具が入隊したころ、京都で新選組を率いた幹部の多くは、すでに隊を去っていました。

  • 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
  • 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
  • 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
  • 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月に隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
  • 斎藤一:会津に残って戦う
  • 土方歳三(副長):箱館政権の陸軍奉行並となり、明治二年五月十一日に戦死

参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

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