| 岩崎一郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 盛岡 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
慶応3年頃に入隊しました。鳥羽伏見の戦いに参加して江戸に帰還します。
後に脱走して彰義隊に入ります。
以後は沼津に居住し旧隊士の竹内元太郎や結城無二三らと交流。
明治3年に勝海舟のもとを訪れ翌4年に没しました。
岩崎一郎をもっと深く——別名は「南一郎」、そして明治四年に殺されています
この隊士を調べると、「南一郎(みなみ いちろう)」という別名に行き当たります。この名前が、消息をたどる鍵でした。
新選組 → 甲陽鎮撫隊 → 彰義隊
慶応三年ごろの入隊。鳥羽・伏見の戦いに参加して江戸へ帰還し、近藤勇の甲陽鎮撫隊に加わり、敗れたあとは彰義隊へ移りました。
上野戦争のあと、沼津での謹慎を命じられます。
沼津で、旧隊士たちと再会します
慶応四年五月、結城無二三が自主降伏して沼津謹慎となったとき、すでに沼津にいた南一郎と再会したと伝わります。
明治二年には、南一郎・石川武雄の三人で江戸に潜伏し、さらに三人で日野の佐藤彦五郎——土方歳三の義兄にあたる人物——を訪ねています。
そして明治四年一月八日、沼津の郊外で何者かに殺害されました。のちに結城無二三らが墓碑を建てています。
ただし、この話には出所が一つしかありません
正直に書いておきます。
いま書いたことの典拠は、結城禮一郎『旧幕新撰組の結城無二三——お前達のおぢい様』(大正十三年)という一冊に集約されます。結城無二三の息子が、父から聞いた話をまとめた回想録です。
さらに厄介なことに、結城無二三本人の新選組在籍が、一次史料で確認できていません。慶応三年六月の名簿にも、永倉新八の同志連名記にも、土方歳三の人員名簿にも、箱館戦争後の『戦友絵姿』にも、結城の名はありません。研究者から強い疑問が出ています。
つまり沼津での再会も、明治四年の殺害も、結城家の回想という単一の系統から出た話だということになります。
それでも書いておく意味
新選組を離れた隊士がその後どうなったかは、たいてい分かりません。当サイトの隊士ページを順に見ていただくと、「以後の消息は不明です」で終わるものがいくつも並んでいます。
そのなかで、この人には「明治四年一月八日、沼津郊外で殺害」という日付まで残っています。回想録という危うい足場の上にではありますが、確かに残っています。史料の確からしさと、記録が残るかどうかは、別のことです。
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