二本松藩の歩み
幕末期、第10代二本松藩主「丹羽長国」は江戸湾警備、京都警衛、天狗党の乱鎮圧などで活躍しました。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦いましたが、各地で敗戦を重ね、慶応4年(1868年)7月28日に長国は米沢藩へ逃れ、翌29日に二本松城は落城しました。
この二本松城の攻防戦で特に有名なのが「二本松少年隊」の奮戦であろう。この戦いで多くの少年たちが命を落としました。この二本松城落城により新政府軍の次の攻撃目標が会津藩へと向き会津攻防戦が展開されました。

長国は九月に降伏し、自身の隠居を条件として「丹羽長裕(米沢藩主・上杉斉憲の子)」が養嗣子として跡を継ぐことを認められました。このときに二本松藩は五万石を減封されました。明治二年(1869年)の「版籍奉還」で丹羽長裕は二本松藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で二本松藩は廃藩となり二本松県となりました。
今も「二本松少年隊」を偲ぶ石碑が二本松城下に建立されています。
★二本松少年隊 ― 年齢を偽って出陣した子どもたち
二本松藩十万石の戊辰は、たった一日で終わりました。慶応四年七月二十九日、二本松城は攻撃を受けたその日のうちに落城しています。
理由は単純です。城に兵がいなかったのです。
二本松藩の主力は、白河口をはじめ他方面の戦線に出払っていました。新政府軍は、その隙を突いて一気に城下へ迫ったのです。
十三歳から十七歳の、六十二人
守る者がいない。そこで動員されたのが、少年たちでした。
二本松藩には「入れ年」という慣習がありました。実年齢に一、二歳を加えて届け出ることで、本来なら出陣できない年齢の者を戦列に加えるのです。
こうして編成されたのが、のちに二本松少年隊と呼ばれる部隊です。その数六十二名。最年少は数え十三歳でした。
彼らは大壇口などで新政府軍と交戦し、多数が戦死します。隊を率いた砲術師範の木村銃太郎も、負傷して介錯を受けました。
—会津の白虎隊は十六、七歳でした。二本松の少年隊は、それよりさらに幼いです。白虎隊ほど広く知られていないのは、落城が一日で終わり、物語として語り継がれる時間すらなかったからかもしれません。
丹羽長秀の子孫が、最後に守った城
藩主の丹羽家は、織田信長の重臣・丹羽長秀の子孫です。信長の四天王に数えられた家が、二百八十年後に東北の小藩として少年を戦場に出すことになりました。
藩主丹羽長国は落城の際に城を脱し、米沢へ逃れて降伏しました。
城下は焼かれ、二本松藩は五万石に減封されます。—いま二本松城跡に立つと、この城が一日で決着がついた戦場だったということが、かえって重く感じられます。
落城は正午前でした ― 徹底抗戦を決めてから二日後
二本松の戦いがどれほど短かったか。二本松市の広報が伝える経過はこうです。老臣会議が徹底抗戦を決めてからわずか二日後、慶応四年七月二十九日の正午前に二本松城は炎上落城しました。
兵力は二本松勢約千人に対して西軍約七千人(二本松市観光連盟)。新政府軍の参謀は板垣退助でした。
なぜ兵がいなかったのか
十万石の藩に千人しかいなかった理由も、市の広報が明記しています。三春藩の同盟離脱と、白河戦に主力が出て戻らなかったことです。
三春藩が七月二十六日に無血開城したことで、南からの防衛線が消えました。そして藩の主力は白河口に出たまま帰っていません。残っていたのは老人と少年と農民で、装備は旧式の銃と槍と刀でした。
この戦いで、少年隊士は十四名が戦死しました。藩全体の死者の数は資料によって大きく異なり、後の「7月29日正午、城内で起きたこと」の節で触れます。
少年隊の人数と年齢 ― 数字が確定したのは昭和五十六年です
二本松少年隊について、数字の来歴を整理しておきます。年齢は数え年で十三歳から十七歳。
人数のほうは、時間をかけて確定しました。当初は二十五名とされ、大正十五年(1926年)に五十一名、そして昭和五十六年(1981年)に六十二名という現在の数字になりました。戦死は隊長・副隊長を除いて十四名、負傷七名です。
「二本松少年隊」という呼び名そのものも、当時のものではありません。大正六年(1917年)の五十年祭に際して出された冊子『二本松戊辰少年隊記』にもとづいて定着した名称です。戦いから半世紀たってから名前が付き、百十三年たってから人数が確定した。少年たちの記録はそういう形で残されてきました。
隊長の木村銃太郎は二十二歳で、大壇口で負傷して死亡。副隊長の二階堂衛守は三十三歳で、寺の参道で被弾しました。
「入れ年」という仕組み
十三歳の子が軍役に就けた理由については、二本松市教育委員会がはっきり説明しています。
二本松藩は、軍役の年齢登録で二歳の加算を認めていました。これが「入れ年」です。十三歳の子は十五歳として登録できる。年齢を偽ったというより、藩の制度としてそれが認められていたということです。
平時には、おそらく体面や家の事情のための便法だったのでしょう。それが慶応四年の七月に、そのまま出陣の資格になりました。
顕彰は平成に入ってからです
少年隊の顕彰施設について、年次を挙げておきます。
二本松少年隊群像は平成八年(1996年)七月二十八日建立、作者は橋本堅太郎です。菩提所の大隣寺は丹羽家の菩提所でもあり、二本松少年隊の墓所として市の文化財一覧に掲載され、戦死十四名と隊長の位牌が安置されています。
展示施設はにほんまつ城報館(令和四年=2022年四月九日開所)と二本松市歴史資料館です。
石高は十万七百石です
石高について補足します。日本大百科全書は丹羽家の表高を十万七百石としています。石高は十万七百石です。内訳は本高十万九百五十四石余・改出二千八百四十四石余・新田一万二千八百十九石余で、惣高は十一万六千六百十八石余になります。表高十万石台の藩で、実質は十一万石台だったわけです。
丹羽光重が入るまでに、六人が城主を替わっています
二本松城(霞ヶ城)の城主の変遷は、東北の戦国から近世への移り方をそのまま示しています。二本松市教育委員会の年表から拾います。
応永二十一年(1414年)に畠山満泰。天正十四年(1586年)七月、伊達政宗が畠山氏を滅ぼし、同月二十七日に入城。以後は蒲生氏郷の城代(天正十八年八月〜慶長三年三月)、上杉景勝の城代(慶長三年三月〜慶長六年八月)、松下重綱(寛永四年二月〜同年十月、わずか八か月)、加藤明利(寛永五年五月〜寛永十八年三月)。
そして寛永二十年(1643年)八月、丹羽光重が白河より十万七百石で入府しました。以後、幕末まで丹羽家の城です。城は標高三百四十五メートルの白旗ヶ峯にあり、東西約五百六十メートル・南北約六百四十メートル。
丹羽家の由来も押さえておきます。丹羽長重(1571〜1637年)は丹羽長秀の子で、関ヶ原で所領を没収されたのち徳川秀忠の引立てで常陸古渡一万石、寛永四年に陸奥白河十万石余へ。その子が光重です。織田信長の重臣の家が、いったん無領になってから東北の十万石になった、という経歴です。
提灯祭りは、光重が始めました
丹羽光重が二本松に入った寛永二十年には、もう一つ始まったことがあります。
二本松市の説明では、寛永二十年(1643年)に丹羽光重が栗ヶ柵に二本松神社を祀り、領民に自由な参拝を許したのが提灯祭りの始まりです。現在は十月の第一土曜・日曜・月曜の三日間、三百余の提灯をつけた七台の太鼓台が出ます。入封した年に領民の参拝を許した殿様の祭りが、いまも三日間続いているわけです。
藩校は敬学館で、文化十四年(1817年)創設。城内には旧二本松藩戒石銘碑があり、寛延二年(1749年)に刻まれたもので、昭和十年(1935年)十二月二十四日に国史跡に指定されています。藩士への戒めを岩に刻んだ碑で、指定は城跡本体よりはるかに早いものです。
城跡は平成十九年に国史跡になりました
二本松城跡の国史跡指定は平成十九年(2007年)七月二十六日です。箕輪門は昭和五十七年(1982年)に再建されました。城に天守はなく、天守台だけが残ります。城内の洗心亭は昭和五十一年に市指定です。
近代の二本松については、明治六年(1873年)に二本松製糸会社が城内で操業したことが市教育委員会の記録にあります。落城から五年後、焼けた城の敷地で製糸工場が動き出したということです。
その後
幕末の藩主丹羽長国は天保五年四月十四日(1834年)生、明治三十七年(1904年)一月十五日没、七十一歳。丹羽長富の長男で、安政五年(1858年)に十代藩主となりました。戊辰のときは数え三十五歳です。
世界大百科事典は長国について「奥羽越列藩同盟に参加して敗れ、減封・隠居謹慎。のち許されて子爵」と記していますが、華族令で子爵を授けられたのは跡を継いだ長裕で、明治17年(1884年)のことです。減封後の五万石は十一代長裕に与えられました。
県の変遷は、明治四年(1871年)に二本松県、同年十一月に福島県と改称、明治九年(1876年)に若松県・磐前県を統合した福島県へ編入という経路です。
二本松の現地を歩いた記録
二本松藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。
二本松藩をもっと詳しく
飢饉で2割の人が消えた藩
二本松藩の領地は安達郡69か村と安積郡41か村、あわせて110か村で、10の組に分けて代官が治めていました(日本大百科全書)。2代・長次のころから幕府の公役が重くなり、財政は早くから苦しくなります。そこへ追い打ちをかけたのが飢饉でした。領内の農村人口は貞享元年(1684年)の8万3,853人から、天明の大飢饉のあとには6万2,821人まで落ち込んでいます。天明の飢饉だけで1万2千人以上が失われたとされます。6代・高庸は延享2年(1745年)に「赤子生育法」を出して子どもの間引きを戒め、7代・長貴は大火と飢饉のあとに寛政の改革に取り組みました。特産品としては二本松万古焼、川崎の和紙、平石の畳表、大平の串柿が知られ、養蚕や馬産も奨励されて、馬市や糸市が立ちました。
戒石銘と、儒者・岩井田昨非
城跡に残る戒石銘碑を刻ませたのは、5代藩主・丹羽高寛です。藩政改革のために招かれた儒学者・岩井田昨非(咋非とも書きます)の進言によるもので、刻まれたのは「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」の16文字。おまえの俸禄は民のあぶらである、民はしいたげやすいが天はあざむけない、という意味で、10世紀の後蜀の皇帝・孟昶の戒めの詩から抜き出したものです。完成した寛延2年(1749年)は凶作の年で、藩内では大きな一揆が起きています。藩士が登城のたびにこの石の前を通ったことを思うと、16文字の重さがよくわかります。
白河口から本宮へ ― 落城前の2か月
二本松城に兵がいなかった理由は、5月からの戦いにさかのぼります。5月1日に白河城が新政府軍の手に落ちると、会津藩の求めに応じて、二本松藩は8小隊と砲隊からなる主力を白河口へ送りました。しかし城の奪還はかなわず、主力は白河周辺にくぎ付けになります(白河口の戦いは白河小峰城と白河口の戦いで詳しく紹介しています)。7月に入ると戦線は北へ押し上げられ、糠沢での夜襲で26名、7月28日の本宮奪還の戦いでは93名の二本松藩兵が亡くなったとされます。その間の7月26日には隣の三春藩が新政府軍に帰順し、二本松は南と東から迫られる形になりました。
7月29日正午、城内で起きたこと
降伏か抗戦かを決める軍議で、家老の丹羽一学(富穀)は「死を賭して信義を守るは武士の本懐」と述べ、抗戦の道が選ばれました。病身の藩主・長国は28日、本人の意思に反して駕籠に乗せられて城の北約15キロの水原へ移され、さらに米沢藩へ逃れます。29日、二本松藩は城外の高地に12小隊を並べ、その後ろに仙台藩3小隊と会津藩5小隊が控えました。新政府軍は長州・薩摩・備前などの小浜支隊と、薩摩・土佐・彦根・佐土原などの板垣支隊の二手に分かれて攻め寄せました。正午、重臣たちは抵抗をあきらめて城に火を放ち、丹羽一学以下7名が城内で次々と自刃しました。新政府軍の戦死者は17名とされます。二本松藩側の死者は、218名とする資料、337名とする資料、420名とする資料があり、正確な数はわかっていません。
10万石の動員目安と、実際の兵力
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるもの「1万石あたり235人」を10万700石にあてはめると、動員の目安は約2,370人になります(この規定は案にとどまり、発布されなかったとする説もあります)。落城の日に城を守ったのは約1,000人で、その多くが老人と少年でした。目安の半分にも届かない兵で、7千の新政府軍を迎えたことになります。
米沢から来た最後の藩主
家名を継いだ丹羽長裕は、米沢藩主・上杉斉憲の九男で、長国の長女・峯と結婚して養子に入りました。家督相続は明治元年(1868年)12月26日、石高は5万石です。明治2年(1869年)6月19日に二本松藩知事となり、翌年には藩政の一部を役人に任せて東京で学ぶことを願い出て許されています。明治17年(1884年)7月8日に子爵となり、明治19年(1886年)に亡くなりました。跡は弟の長保が継いでいます。長裕の墓は長く東京の青山墓地にありましたが、2024年に丹羽家の菩提所である二本松の大隣寺へ移されました。落城から150年余りを経て、最後の藩主は二本松に帰ったことになります。
白河口の戦いの流れは、白河口の戦いとは?三倍の兵を持つ同盟軍が一日で白河小峰城を失った戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすくで、進軍図とあわせて解説しています。
慶応4年7月、二本松城が落ちた戦いの流れは、こちらで詳しく解説しています。
二本松の戦いとは?主力不在の城が1日で落ち、二本松少年隊が散った戊辰戦争を図解でわかりやすく
場所・アクセス・地図
二本松城
〒964-0904 福島県二本松市郭内4
あわせて読みたい(現地取材)



