市村鉄之助【新選組隊士 両長召抱人 幕末】

市村鉄之助
職名 両長召抱人
出身 美濃大垣
終焉場所 西南戦争
終焉方法 戦死

市村辰之助の弟。
慶応三年に入隊し鳥羽伏見の戦い以降も戦い続けて函館まで転戦します。
土方に頼まれて函館を脱走し土方の日野の生家佐藤家に遺品を届けました。
後に明治10に勃発した西南戦争で西郷軍に参加して戦死したと伝わります。

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天然理心流の道場「撥雲館」の跡(東京都調布市)
天然理心流の道場「撥雲館」の跡(東京都調布市)。近藤勇が育った多摩の道場です(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

土方歳三の小姓

市村鉄之助は、美濃・大垣の出身とされる少年隊士で、新選組副長・土方歳三の小姓として、その身近に仕えました。戊辰戦争の最後の戦い、蝦夷地・箱館まで土方に付き従った、忠実な若者でした。

土方の遺品を故郷へ

箱館での戦いが最終局面を迎えるなか、死を覚悟した土方歳三は、市村鉄之助に自らの写真や遺髪、遺品を託し、日野(現在の東京都日野市)の縁者・佐藤彦五郎のもとへ届けるよう命じたと伝えられます。鉄之助は危険をくぐり抜けてこの使命を果たしました。今日、私たちが土方歳三の有名な洋装の写真を目にできるのは、この少年隊士の働きがあったからこそなのです。

土方歳三の写真を運んだ少年です

いま広く知られている土方歳三の写真、洋装で椅子に腰かけたあの一枚は、この市村鉄之助が箱館から日野まで運んだものです。所蔵する佐藤彦五郎新選組資料館の目録には「箱館で田本研造が写した写真。小姓・市村鉄之助が明治二年七月に日野宿の佐藤家に届けた」と記されています。写真は明治元年十二月に撮られた鶏卵紙で、縦十一センチ・横六・五センチ。裏には大沼枕山の作った土方を悼む漢詩が書き添えられています。土方が託したという添え状には「使の者の身の上頼み上げ候」とあったと伝わりますが、この文面の原本までは確認できません。

令和六年の春には、同じ資料館が土方の遺髪を初めて公開しました。館長の佐藤福子氏は、公開の理由として市村鉄之助の働きを伝えるためだと述べています。この話は家に伝わるものではありますが、所蔵する館が自館の資料の来歴として公に記しているという点で、ただの言い伝えよりは確かです。なお、一部の研究者から疑いが呈されているという話も聞きますが、その論考そのものを確かめることはできませんでした。

十四歳で入りました

美濃大垣藩士・市村半右衛門の三男で、のちに近江の国友村で育ちました。父が藩を追われたと伝わります。慶応三年、十四歳のときに兄の辰之助とともに入隊し、土方歳三の小姓となりました。箱館を脱け出したのは土方の命によるものです。

そのあとは、二通りに伝わります

一つは明治六年十一月十六日に病で亡くなったという説で、菩提寺の記録に拠ります。数え二十歳でした。もう一つは明治十年の西南戦争で西郷軍として戦死したという説です。菩提寺の記録という具体の裏づけがある分、病死説のほうが根拠は示されていますが、定まってはいません。墓は大垣の全昌寺にある市村家の墓です。

市村鉄之助の生きた時代—美濃大垣藩の転向

大垣藩の出身 市村鉄之助は美濃の大垣藩(戸田家十万石)の出身です。大垣藩は譜代の藩で、慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍の先鋒として戦いました。ところが敗戦ののち、藩はすぐに新政府に恭順し、東山道を進む新政府軍の先鋒を務めることになります。

土方の使い 故郷の藩が新政府側に転じたあとも、市村は新選組に残り、土方歳三の小姓として箱館まで従いました。箱館戦争の最中、土方は市村に自分の写真や遺品を託し、日野の義兄・佐藤彦五郎のもとへ届けるよう命じたと伝えられます。いま日野に残る土方の写真は、市村が命がけで届けたものとされます。

慶応三年、入隊したころの新選組

割れた隊と、幕臣への取り立て

市村鉄之助が兄の辰之助とともに加わった慶応三年は、新選組が大きく揺れた年です。三月、参謀の伊東甲子太郎が同志十数名を連れて隊を離れ、御陵衛士を結成しました。六月には隊士たちが幕府の家臣に取り立てられ、近藤勇は見廻組与頭格の待遇を受けています。同じ六月、屯所は西本願寺から不動堂村の新しい屋敷へ移りました。秋には土方歳三が江戸に下って隊士を募っており、市村兄弟のような若い隊士はこの時期に加わっています。このころの主な幹部は次のとおりです。

  • 局長:近藤勇
  • 副長:土方歳三
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 ほか
  • 斎藤一は三月に伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、十一月に戻ったとされる
  • 参謀だった伊東甲子太郎、九番組長の鈴木三樹三郎、八番組長の藤堂平助らは、三月に御陵衛士として分離

十一月の油小路

この年の十一月十八日、新選組は御陵衛士の伊東甲子太郎を斬り、遺体を引き取りに来た衛士たちを油小路で襲いました。かつての八番組長・藤堂平助もこのとき命を落としています。入隊まもない若い隊士にとって、隊のかつての仲間どうしが斬り合う光景は、新選組の厳しさを思い知らされる出来事だったことでしょう。

参考資料:Wikipedia日本語版「市村鉄之助」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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