| 新井破摩男 | |||
| 職名 | 局長附 | ||
| 出身 | 甲斐 | ||
| 終焉場所 | 会津如来堂 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
慶応三年に入隊し鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還します。
会津に至り母成峠の戦いで負傷すも斎藤一らとともに会津に残り「如来堂の戦い」で戦死しました。

新井破摩男をもっと深く—近藤勇の側近から、斎藤一の側近へ
甲斐国の出身。天保十四年(1843年)の生まれと伝わります。この人が新選組に入ったのは、戊辰戦争が始まってからでした。
負けると分かってから入った隊士
入隊時期は「戊辰戦争勃発後」とされます。鳥羽・伏見に敗れ、近藤勇が甲州で敗れ、隊が江戸へ退いたあとです。もう勝ち目のない側へ、わざわざ加わったことになります。
隊では近藤勇の側近を務め、会津へ移ってからは隊長・山口二郎—斎藤一の側近となりました。局長が捕らえられ処刑されたあと、残った部隊の長のそばに移ったわけです。
白河口、そして如来堂
白河口の戦いで負傷しています。慶応四年閏四月から七月にかけて、会津藩と新政府軍が繰り返し衝突した、戊辰最大の激戦地です。
そして最期は会津戦争の如来堂襲撃で戦死したと伝わります。慶応四年九月五日(1868年10月20日)とされますが、確かなことは分かっていません。
如来堂は、会津に残った新選組が新政府軍に急襲された場所です。池田七三郎はここを脱出して生き延び、水戸へ抜けています。新井破摩男は、そこで死んだとされる側にいました。
記録の薄さについて
正直に書いておきます。この人については、参考文献の明示された記述が見当たりません。生年も没年も、入隊時期も、伝わっているというだけで裏が取れていません。表記も「新井」と「荒井」、「破摩男」と「破魔男」で割れています。
それでも、甲斐から出て、負け戦の最中に隊に入り、白河で傷を負い、会津で死んだとされる—そういう人がいたことは、名簿に残っています。新選組の隊士名簿とは、大半がこの程度の情報しか伝えてくれないものです。

三つの字で書かれ、戦死も確かめられていません
この隊士の名は、史料によって字が違います。中島登が描いた『戦友姿絵』では「荒井破魔男」、板橋の新選組供養塔の刻名は「新井破磨男」、隊士名簿の類では「新井破摩男」。姓の字も、名の真ん中の字も揺れています。天保十四年の生まれ、甲斐の出とされ、戊辰の戦が始まってから入隊した人です。
如来堂での戦死には、留保がつきます
会津の如来堂で戦死したと伝わりますが、これを確かなこととは言えません。その理由は、この人の名を載せている中島登の記録の性格にあります。市立函館博物館の解説によれば、中島は箱館の弁天台場に幽閉されているあいだに『戦友姿絵』を描き、隊士二十六人と旧幕府方五人の姿を残しましたが、会津の如来堂で戦った隊士については、消息を確かめる間もなく海を渡ったため、すべて殉死として記したとのことです。つまり如来堂で別れた仲間は、生死を確かめられないまま死んだことにされました。石田入道の戦死印にも、同じ留保がつきます。
近藤勇の側から、斎藤一の側へ
この人が近藤勇の側近から斎藤一の側近へ移ったというのは、新選組という組織が二つに割れたことの言い換えでもあります。土方歳三が北へ向かったとき、斎藤は会津に残ると言って別れました。破摩男は会津に残るほうに付いたわけです。白河口で傷を負い、如来堂で消息を絶ち、名の字は三通りに揺れ、戦死かどうかも確かめられない—甲斐から出てきた一人の男について、残っているのはそれだけです。板橋の碑に名が刻まれているのは、永倉新八が死んだ者として数えたということになります。
会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。
新井破摩男の生きた時代—甲州勝沼の戦い
甲陽鎮撫隊 鳥羽伏見の戦いのあと江戸に戻った新選組は、慶応四年(1868)三月、幕府から甲府城を守るよう命じられ、「甲陽鎮撫隊」として甲州へ向かいました。近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名を変えています。ところが一行が甲府に着く前に、板垣退助の率いる土佐藩などの新政府軍が甲府城に入ってしまいました。
勝沼の敗戦 三月六日、甲陽鎮撫隊は甲州の勝沼で新政府軍と戦いましたが、わずか一刻ほどで敗れて散り散りになりました。甲斐の出身だった新井破摩男にとっては、故郷での戦いでもありました。
慶応三年の入隊と、鳥羽伏見までの日々
入隊したころの新選組
新井破摩男が加わった慶応三年は、新選組の隊士が幕府の家臣に取り立てられた年です。三月には伊東甲子太郎らが御陵衛士として隊を離れ、六月には屯所が不動堂村へ移りました。秋には土方歳三が江戸で新しい隊士を募っています。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 ほか
- 斎藤一は三月に伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、十一月に戻ったとされる
- 参謀だった伊東甲子太郎、九番組長の鈴木三樹三郎、八番組長の藤堂平助らは、三月に御陵衛士として分離
大政奉還ののちの新選組
十月に将軍慶喜が大政奉還を申し出ると、京都の情勢は一気に緊迫しました。十二月九日の王政復古の政変ののち、新選組は伏見奉行所の守りに就きます。翌慶応四年一月三日、鳥羽伏見の戦いが始まり、新選組は会津兵とともに伏見奉行所に陣を構えました。負傷した近藤勇に代わって指揮を執ったのは土方歳三です。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:新井忠雄(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:荒木信太郎(平隊士)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



