大和郡山の郡山城を訪ねたのは、朝から雨の降る日でした。天守も御殿も残っていない城ですが、足を止めさせられたのは石垣です。黒く濡れた石が、どこまでも積み上がっています。
この城は、豊臣秀吉の弟・秀長が百万石の主として入った城です。2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の舞台でもあります。そして幕末には、柳沢吉保の子孫・柳沢家が十五万石あまりで治めていました。百万石の大名のために築かれた城を、その後の大名たちはどう使ったのか。雨の城内を歩きながら考えました。
城の入口は、昭和の終わりに復元されました
近鉄郡山駅から歩いて十分足らずで、堀の向こうに白壁の櫓と門が見えてきます。左が追手向櫓、右が追手門(梅林門)です。
郡山城の建物は、明治のはじめにほとんどが取り壊されました。いま城内に建つ門や櫓は、昭和五十年代後半から六十年代にかけて復元されたものです。追手向櫓は昭和六十二年(1987年)の復元で、本多家が城主だったころは「大手先艮角櫓」と呼ばれ、柳沢家が入ってから今の名になったと伝わります。

門をくぐった先には追手東隅櫓と、長く延びる多聞櫓が建っています。櫓の下の石垣を見ると、大小の自然石を組み合わせた、いかにも古い積み方です。ここから先は、ずっと石垣の城でした。
石が足りず、地蔵も墓石も積みこみました
郡山城の石垣でいちばん有名なのが、天守台の北側に積みこまれたさかさ地蔵です。

説明板によると、この地蔵は高さ九十センチほどで、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、大永三年(1523年)の銘があるそうです。頭を奥に向け、うつむくように積みこまれているため、「さかさ地蔵」と呼ばれています。
郡山城の石垣には、こうした転用石がたくさん使われています。寺の礎石、石塔、石仏、ふだんの暮らしで使う石臼まであり、石垣の表面で見えるものだけでも七百五十基あまりが確認されているそうです。奈良盆地には城を築けるほどの石が少ないうえに、築城を急いだため、手に入る石は何でも使った、というのが説明板の説明でした。
信仰されていた石仏さえためらわずに積む。それだけの勢いで築かれた城だったということです。いまでは毎年、お城まつりの初日に、石垣に積まれた石仏や墓石を供養する法要が営まれています。
天守台に登ると、奈良盆地が見わたせます

さかさ地蔵の上にそびえるのが天守台です。崩れるおそれがあったため、平成二十五年度から四年かけて石垣が修理され、平成二十九年(2017年)三月に展望施設として公開されました。
このときの発掘調査で、天守の礎石と金箔を押した瓦が見つかり、豊臣家の時代にここに天守が建っていたことが確かめられています。「郡山城に天守はあったのか」は長く議論されてきたことで、それに答えが出たわけです。

雨でかすんでいましたが、天守台からは大和郡山の町並みと、その向こうの山々まで見わたせました。晴れた日には、平城宮跡の大極殿や薬師寺、若草山まで見えるそうです。
眼下に見える寺院のような建物は、明治四十一年(1908年)に日露戦争の戦勝を記念して奈良公園に建てられた、旧奈良県立戦捷記念図書館です。昭和四十三年(1968年)にこの城内に移され、いまは城址会館と呼ばれています。奈良県の文化財にも指定されています。
極楽橋は、およそ百五十年ぶりに架け直されました

本丸と、その北の毘沙門曲輪を結んでいたのが極楽橋です。失われてから長く橋がありませんでしたが、市内の方からの三億円の寄付をきっかけに再建が進み、令和三年(2021年)三月に一般公開されました。およそ百五十年ぶりの復活です。
雨の日で人がいなかったので、濡れた板の上をゆっくり渡りました。橋の両側に高い石垣が迫っていて、ここが城の中心だったことがよくわかります。
百万石の城を、十五万石で守る
郡山城を歩いていて気になったのは、この城の大きさです。ここは、秀長が大和・紀伊・和泉の百万石を治めるために大きく広げた城でした。では、そのあとの城主たちは、どれくらいの石高でこの城に入ったのでしょうか。
| 城主 | 入った年 | 石高 |
|---|---|---|
| 豊臣秀長 | 天正十三年(1585年) | 約100万石(大和・紀伊・和泉) |
| 増田長盛 | 文禄四年(1595年) | 約20万石 |
| (関ヶ原のあと、いったん城は取り壊される) | — | — |
| 水野勝成 | 元和元年(1615年) | 6万石 |
| 松平忠明 | 元和五年(1619年) | 12万石 |
| 本多政勝 | 寛永十六年(1639年) | 15万石 |
| 松平信之 | 延宝七年(1679年) | 8万石 |
| 本多忠平 | 貞享二年(1685年) | 12万石 |
| 柳沢吉里 | 享保九年(1724年) | 15万1千石余 |
秀長の百万石に対して、江戸時代の城主はいちばん多くても十五万石ほどです。関ヶ原の戦いのあと、城の建物の多くは伏見城などへ移され、郡山城はいったん空き城になりました。そのあと大坂の陣を経て、水野勝成が六万石で入り、城を立て直しています。
百万石の家臣団で守る前提の城を、六万石や十二万石の家臣で守りきれたのか。正直なところ、江戸時代の大名が城に大軍で立てこもることは、もう想定されていませんでした。城は戦うための砦であるより、藩の役所であり、大名の権威を見せる場所になっていたのです。郡山城の石垣が広い範囲に残ったのも、戦がなかったからこそでした。
それでも、柳沢家の十五万石は、大和の国の中ではとびぬけて大きな藩です。まわりは一万石ほどの小藩と幕府の直轄地が入り組んでいて、何かあれば郡山藩が動く、という立場にありました。なお、柳沢家の藩士が何人いたのかを示す資料には、今回はたどり着けませんでした。
柳沢家は、ここで幕末を迎えました
柳沢家は、五代将軍・徳川綱吉の側用人だった柳沢吉保の家です。吉保の子・吉里のとき、享保九年(1724年)に甲府から郡山へ移され、それから明治四年(1871年)の廃藩置県まで、六代にわたってこの城を治めました。
幕末の藩主は柳沢保申です。わずか二歳で家督を継ぎ、戊辰戦争では新政府軍の側につきました。明治に入ってからは金魚の研究所をつくり、紡績会社を起こし、いまの奈良県立郡山高校にも土地や資金を寄せています。いま大和郡山が「金魚の町」と呼ばれるのも、藩士の内職として始まった金魚の養殖を、柳沢家が育ててきたからです。
郡山藩の歴史と幕末の動きは、郡山藩/柳沢家15万1千石で詳しく書いています。
訪ねるなら
- 郡山城跡(奈良県大和郡山市城内町)——国の史跡(令和四年指定)、続日本100名城、日本さくら名所100選。近鉄橿原線・近鉄郡山駅から徒歩約七分、JR大和路線・郡山駅から徒歩約十五分
- 天守台展望施設——四月〜九月は七時〜十九時、十月〜三月は七時〜十七時(行事などで変わることがあります)
- さかさ地蔵——天守台の北側の石垣。天守台に登る前に、北側へ回ってみてください
- 大河ドラマ館——『豊臣兄弟!』の大河ドラマ館が、城の近くのDMG MORIやまと郡山城ホールで令和九年(2027年)一月二十二日まで開かれています
雨の日の石垣は、晴れの日より色が濃く、石の一つ一つがよく見えました。桜の季節はたいへんな人出になるそうなので、石垣をじっくり見たいなら、あえて雨の日や冬に行くのもいいと思います。
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取材と情報源について
写真は筆者が雨の日に撮影したものです。城の歴史と復元・整備の年は、大和郡山市「郡山城」「郡山城天守台展望施設のご案内」、奈良県「郡山藩と柳澤家」、柳沢文庫「郡山城極楽橋再建・白沢門櫓台整備事業」、現地のさかさ地蔵の説明板、ウィキペディア日本語版の郡山城・郡山藩・柳沢保申の各項目などをもとにまとめました。城主ごとの石高は資料によって多少の違いがあります。

