黒川藩(郡山藩支藩)/柳沢家1万石:柳沢光邦 会津藩の誘いを受け奥羽越列藩同盟に加わるも消極的だったため家名を存続した黒川藩

【藩名】
黒川藩(郡山藩支藩)

【説明】
第7代藩主「柳沢光昭」は黒川陣屋内に藩校「弘道館」を設け、藩士の子弟教育に務めました。黒川藩は歴代藩主のほとんどが「江戸定府」であったため参勤交代がなかったです。そんな中、文久3年(1863年)に「柳沢光昭」が初めて御国入りしています。

明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では、会津藩の申し入れに従って「奥羽越列藩同盟」に加わり家臣を送ったが、消極的な立場に留まります。表だって新政府軍に抵抗しなかったこともあり無事に幕末を乗り切りました。翌年、最後の藩主となった「柳沢光邦(光昭の養子)」が「黒川藩知事」となります。

そして明治4年(1871年)7月の「廃藩置県」により黒川藩は廃されて黒川県となり、同年11月には新潟県に併呑されました。

目次

本家・郡山藩との関係(柳沢家)

黒川藩は、越後の柳沢家一万石の藩で、大和の郡山藩と同じ柳沢一族に連なります。

戊辰戦争では、黒川藩は会津藩の誘いを受けて奥羽越列藩同盟に加わりましたが、その姿勢は消極的でした。そのため戦後も厳しい処分を免れ、家名を保つことができています。最後の藩主は柳沢光邦です。難しい立場を巧みに生き抜いた小藩でした。

同盟に入ったときの藩主は、光邦です

一点、注意が要ります。慶応四年閏四月二十日、柳沢光昭は男子がないまま隠居し、娘婿の光邦に家督を譲りました。奥羽越列藩同盟が成立したのは五月六日ですから、同盟に加わったときの藩主は光昭ではなく光邦です。光昭は文政六年の生まれで、文久三年に奏者番、元治元年に学問所奉行を務めた人でした。光邦は嘉永七年の生まれで、家督を継いだときまだ十五歳です。

五月六日に加わり、八月十二日に降りました

黒川藩が同盟に加わったのは、新発田藩で開かれた諸藩の会議の場でした。越後からは新発田・村上・村松・三日市・黒川の五藩が加わり、これで三十一藩の同盟が成立しています。黒川藩は少数の兵を出し、米沢藩の征討に向かう部隊とともに沼村に滞在しました。そして八月十二日、藩主の光邦みずから関川村下関にあった新政府軍の会議所を訪ね、降伏を願い出ます。光邦は新発田の本営へ送られ、藩士十五名はただちに新発田藩兵に編入されて米沢征討へ回されました。宗家の郡山藩と隣の新発田藩が新政府側についたことが、降伏の背景にあったと見る資料もあります。

新政府からの処分は確認できません

減封や謹慎といった処分を記した資料は見つかりませんでした。光邦は明治二年六月に黒川藩知事となり、明治十七年には子爵、のちに貴族院議員も務めています。実質的に不問に付されたと見てよさそうですが、そう明記した資料はありません。藩校の弘道館も、安政年間の創設ということ以上は確かめられませんでした。陣屋の跡は胎内市の黒川小学校から保育園にかけての一帯で、目立つ遺構は残っていません。

【場所・アクセス・地図】

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